これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

ブスに救いなし?☆小説『盲目的な恋と友情』と『自画像』

この頃、コンプレックスについて考えさせられる。

そんな中、こんな言葉に出会った。

ごもっとも。
ブスが性格もブスになるのは仕方ない。だって世間様がブスにはとことん意地悪だから。

ブスは周りから大切にされない=尊重されない。

そうやって周囲から見下される人はますます劣等感を募らせ、下手すりゃ「こんな自分は何をされても仕方ない」と卑屈になり、相手がますます増長するという悪循環にはまってしまう。

劣等感(コンプレックス)は厄介だ。

……っと、前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
小説「盲目的な恋と友情」(辻村深月)について語ろう。

盲目的な恋と友情 (新潮文庫)

盲目的な恋と友情 (新潮文庫)

 
盲目的な恋と友情

盲目的な恋と友情

 
盲目的な恋と友情(新潮文庫)

盲目的な恋と友情(新潮文庫)

 

目次じゃ!

以下、ネタバレするので、見たくない人は、これ以上は見ちゃダメじゃ。

f:id:ohutonn:20170920171058p:plain

ブスを救いなく描く女性作家たち

ブスの執着心は気持ち悪い?

『盲目的な恋と友情』の新潮社による煽り宣伝文句がすごい。以下転載。

これが私の復讐。私を見下したすべての男と、そして女への――。
一人の美しい大学生の女と、その恋人の指揮者の男。そして彼女の醜い女友達。彼らは親密になるほどに、肥大した自意識に縛られ、嫉妬に狂わされていく。そう、女の美醜は女が決めるから――。恋に堕ちる愚かさと、恋から拒絶される屈辱感を、息苦しいまでに突きつける。醜さゆえ、美しさゆえの劣等感をあぶり出した。

※あらすじ(ネタバレ含む)については、こちらを参照↓

調べてみると、他の人の感想・書評では「留利絵が怖い、気持ち悪い」という感想が多かった。

そう、ここに登場する『留利絵』は醜い容姿をしており、美人の友だち『蘭花』に執着する。よって、新潮の宣伝文句『私を見下したすべての男と女に復讐する人物』は『留利絵』ということになる。

つまり『容姿に恵まれなかった女の復讐』がこの小説のテーマのようなのだが――

留利絵がやったことは、他の人と較べてそんなに気持ち悪くて怖いか???

この小説の登場人物の中には、もっと怖くて酷い人は、ほかにいる。
例えば――

蘭花の恋人である指揮者・茂実が蘭花に対してやったことも相当、気持ち悪い。
あるいは茂実や蘭花に対する奈々子(茂実のスポンサー的存在)の態度もかなり酷い。
で、罪の重さからいえば、それらの人たちも充分、重い。
いや、むしろ、茂実に手を下した蘭花や、蘭花にそうさせた茂実のほうが罪が重い。

一方、留利絵はそうした殺人行為には関わっていない。
そう、留利絵は『蘭花に執着しただけ』なのだ。

で、蘭花に執着したのは、茂実も同じだ。

なのになぜ、留利絵の執着心だけがクローズアップされ、気持ち悪がられてしまうのだろう?

それは『醜い者が他者に執着心を持つこと』に、人はことさら嫌悪を感じるからかもしれない。

執着すること――これが全ての元凶なのだ。

難しい恋愛

一人に執着しなければ、リスクが分散され心に、余裕も生まれる。
そう、リスク分散は、この世を生き抜く知恵でもある。

ただ、恋愛において「執着しない」ってあり得るんだろうか。

考えてみれば「恋愛相手は一人だけ」というルールのようなものが、恋愛の難度を上げてしまい、皆を息苦しくさせているのかもしれない。

お互い一人しか選べないからハードルが高くなる。厳しくなってしまうのは当然だ。

※それは結婚にも言える。いや、法で縛られている分、結婚の方がよりハードルが高い。が、何人でも選べるということになれば、責任も分散してしまうので、安定した家庭運営は難しくなる。

とりあえず、恋愛において――「たくさんの人とつきあっていい」ということになれば、お互いに執着することは少なくなるはず。

複数いるうちの一人としてなら「留利絵とつきあってもいい」という男性がいたかもしれない。
そうすれば留利絵もあそこまで劣等感を肥大させることもなかっただろう。

つまり、一人しか選べない恋愛って、実はとても難しく、場合によっては人を不幸にしているのかも?

が、複数いると、それは「真剣じゃない」「ただの遊び」「恋愛とは言えない」となってしまう。通常、恋愛相手(本命)は一人ということになっているし、相手に執着心が持てなければ、それは本物の恋愛ではない、という人もいるだろう。

恋愛は、ごくごく一部の運がいい人、恵まれている人のものなのかも。

なので、彼氏彼女いない歴=自分の年齢という人、ここ何年もいないという人、「恋愛は面倒、自分には無理」という人たちが、たくさんいるのは当たり前。

ブスに厳しい世間様

けど、まだまだ『恋愛できなければ恥ずかしい』という空気は健在。

そんな空気の下、周囲の心無い侮蔑の言葉や見下しが、留利絵の心を歪ませたのだろう。
彼女のコンプレックスまみれは、ある意味仕方ないことなのだ。

それに――もし、ブスがコンプレックスを持たずに明るく元気で積極性にあふれていたら、椰月美智子の小説『恋愛小説』に登場した『ジェロさん』『かおる』のように、とことん哂いものにされるかもしれない。

※椰月美智子氏の『恋愛小説』については、ここを参照↓

小説というのは、おもしろくするため、いくらか過激に描かれているが、世間の価値観や人々の本質がそこに巣くっている。

醜い者がコンプレックスまみれだと、人々をイライラさせるし、疲れさせる。
が、コンプレックスが全くないように元気に積極的にふるまうと、それはそれで「ブスは引っ込んでいろ。分をわきまえろ」てな感じになる。

※前者は『盲目的な恋と友情』の留利絵、後者は『恋愛小説』のジェロさんと宇多川かおるだ。

世間はやっぱり醜い者にはとても厳しいのである。

ブスが主役の小説『自画像』

もう一つ、醜女を主役にして描いた小説「自画像」(朝比奈あすか)も紹介しておこう。

自画像 (双葉文庫)

自画像 (双葉文庫)

 
自画像 (双葉文庫)

自画像 (双葉文庫)

 
自画像

自画像

 

※内容【十代の自意識が膨張し衝突する「教室」。その密室に潜む邪悪なまなざし。三人の少女はこの世界の暗闇に立ち向かう。倫理観を揺さぶる展開に心ふるえる衝撃の問題作】

この『自画像』の結末は――美容整形をして美を手に入れた女性だけが解放されるが、醜女は重犯罪(男に傷つけられた被害女性たちに代わって、その男性らに罰を与える)を続け、十字架を背負う。
※こっちの醜女は、純粋に女性たちのために自分なりの正義を貫く話であり、敵は男性たちだった。

村深月『ゼロ・ハチ・ゼロ・ナナ』での地味な不美人の不幸

ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 (講談社文庫)

ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 (講談社文庫)

 
ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 (100周年書き下ろし)

ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 (100周年書き下ろし)

 
ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 (講談社文庫)
 

『ゼロ・ハチ・ゼロ・ナナ』では地味で不美人なキャラ(ブスという設定ではなかったが)もあまり救われない不幸な結末に終わったっけ。

不美人キャラは男に弄ばれ、捨てられたことをなかなか認めることができなかった。それでも妊娠したことを喜び、今度は子を産むことに執着する。そのあげく、産むことに反対した母親を殺してしまい、警察に追われつつ、実は妊娠もしていなかったというオチ。

男性作家は不美人やブスに対し、ここまで悲惨に描かないだろう。対して女性作家は容赦ない。

不幸まみれなブスキャラの末路

椰月美智子氏の『恋愛小説』はブスをバカにして終わり。

辻村深月氏の『盲目的な恋と友情』『ゼロ・ハチ・ゼロ・ナナ』では救いなし。

朝比奈あすか氏の『自画像』に登場する醜女もさほど救いがあるわけではなく、犯罪を繰り返しているため、いつか天罰が下りそうだ。

そう、これらの作品の結末は全て、容姿が劣る女性は幸せになれないのである。
しかも女性作家がそれを描いている。それが現実だと言わんばかりに。

が、容姿が一番問題にされるのは『恋愛』に関することだろう。ならば、この恋愛から解放されることを考えたほうがいいかも? 

恋愛できない女は不幸・かわいそう――これはもう一種の呪いとなっている気がする。

劣等感からラクになる方法

何にせよ、過度な劣等感というものが厄介である。これが不幸の源。
けど、周りがそれを植えつけてくるのだ。

恋愛などしなくていい、結婚もしなくていい、できない人の方が多い、できないのが当たり前ってな世の中になれば、容姿をさほど気にせずに済む人が増え、過度な劣等感から解放されて、ラクになれるのではと思う。
これは男女共にね。

ほとんどの人が恋愛をし結婚する、となると、やはり『できない自分』に劣等感を持ってしまうだろう。
けど『恋愛はごく一握りの人しかできない』となれば、そんなに劣等感を持つことはなくなる。
※なお、この場合の『恋愛』は「相思相愛で1対1の交際をすること」としている。

恋愛や結婚できない人、しない人がもっと増えれば、馬鹿にする人や見下す人もいなくなり、劣等感に苛まれずに済み、精神的に救われる人もたくさんいるのではないだろうか。

少子化社会保障費が困る、労働力不足になるという問題があるけれど……ま、大量の移民を受け入れ、外国人(特に白人・中東系)の血が入れば、皆の大好きな美人さん・イケメンさん(二重瞼の大きな目、高い鼻、小顔、高い身長、長い脚など)が増えるだろう。

で、今の価値観で醜いとされている者(蒙古襞ありの一重瞼の小さな目、低い鼻、デカい顔、低い身長、短い脚など)は淘汰され、減っていくだろう。

容姿において「日本人離れしている」は褒め言葉である。日本人がそういう言葉を作り、そういう美の感覚を植え付けられているから仕方ない。この感覚はなかなか変えられない。

現実世界は厳しい。で、ゲスい。

うむ、これから生きていくのに、いかに自己防衛していくか、だな。
それには「人間に執着しない」――これがミソかも。そんな考えは「寂しい」という人もいるだろうけれど。

執着しないというのは、人に期待もしないということでもある。
けれど、執着したいほどの人って、実はさほど多くないのでは。

『恋愛強者』って振られてもさほど傷つかず、次の新しい人へ、すぐに相手を見つけられる人のように思うのだが――それって『一人に執着しないからこそできる行為』なのかもなあ。

ブスにシビアな女性作家は現実的なだけ

女性作家がブスを主役または主要キャラにして物語を作ると、ブスは幸せになれず、救いのない結末を迎える場合が多い気がする。

一方、男性作家はブスを主役・主要キャラに置くことはせず、せいぜい脇役、どうでもいいキャラとして描く。

ブスに対し、女性は現実的に、男性はあえて触れないようにしているのかも。

そこでふと思った。『盲目的な~』が、もしテレビドラマ化したら『背の高い痩せたブスだという留利絵役』は誰がやるんだろう?

たぶん、地味に装ったスレンダーなモデルみたいな女優さんが選ばれるんだろうな。

そう、表舞台の映像世界にはブスはめったに現れない。不特定多数の人々=視聴者がそれを求めているから。

このことは前にも語った↓

となると、整形が増えるのはもっともなことだよな。高須クリニックの出番じゃの)

ブサメンと言われる男性もよりコンプレックスに苛まれるようになった気がする。ある意味、男女平等になったとも言えるが。

それだけ世間が美を求めているのかもしれぬ。

ただ、そのうち、自然美人・自然イケメンと、整形美人・整形イケメンの差別が生まれ――もちろん、自然がランク上、整形がランク下ということになるんだろうな。

で、きっと恋愛・結婚する時に、相手に求めるんだぜ。「子どもの時の写真を見せろ」と。

美を求める社会のえげつなさよ。
『外見より中身』は建前。本音は『まずは外見』なんだろうな。

まあ、なんとかコンプレックスとは上手くつきあっていきたいよなあ。

※関連記事