短編連作物語「これ縁」とりあえず終了。以下本文。
「今年も忘年会、欠席なのか?」
仕事を終え、帰り支度を始めた四条静也に黒野先輩が声をかけた。
「すみません。子どもの世話があるんで」
静也は軽く頭を垂れる。
「イクメンってやつか。子どもを持つとそんなに自由がなくなるのか?」
「ええ、そうです」
キッパリと静也は答える。
「へえ……そうなんだ……」
黒野が微妙な相槌を打つ。
まだまだ遊びたい黒野としては自由な時間が持てなくなるのは辛いのだろう。結婚と子どもはもっと先でいいやと思っているに違いない。
「偉いよね~」
一方で、みすず先輩が感心するように何度も頷く。
けど静也にしてみれば、別に偉くも何ともなかった。
自分は、理由があれば定時帰宅を許され、権利がきっちり守られる市役所勤めの公務員であり、恵まれた環境にある。激しい市場競争にさらされる民間企業はこうはいかないだろう。
また、持てる時間を家族のために費やすことが全く苦ではない。
これといった趣味もないし……強いていえば読書だが、別に読めなきゃ読まないでいられる。
というか今では『家庭』が一番の趣味である。
外よりも家の中が好き。友人がいないので外で遊ぶこともない。
そもそも飲み会は苦手だ。
与えられた仕事はきっちりこなすが、仕事に燃えているわけでもなく出世もどうでもいい。
ただ給与に関わってくるので、昇級試験は受け、上の役職を狙うつもりではあるが。
こんな自分は、一般の普通の人からは「つまらない男」に見えるだろう。
けれど、地味な性格だからこそ家庭的でいられるのかもしれない。
将来の希望・夢も特にない。
いや、すでにもう望みは叶えられている。
家族と平穏に日々を過ごしたい。それがずっと続いてくれればいい。
この暮らしをただひたすらに守り抜く。それが自分の仕事だ。
「では、お先に失礼します」
挨拶をし、静也はそそくさと部屋を出た。
エレベータは使わず、階段をタッタと下りる。早く帰らねば。理沙と涼也が待っている。
が、4階に来た時、小林主任とバッタリ鉢合わせしてしまった。
「あら……」
小林主任は静也を見やり、なぜか頬をゆるめ、しみじみとした口調でこう言った。
「……あなたたちも大変ね……」
「え? 何がですか?」訊き返すと、小林主任は笑みをこぼし――
「いえ、気にしないで。……じゃあ、お先にどうぞ」と静也に先に行くよう促した。
静也は軽く会釈し、階段を駆け下りる。
小林主任から何だかワケの分からない挨拶をされたけど、なぜか心が軽くなった気がした。
主任も静也に対し、気軽に声をかけた風だった。
いつの間にか、お互いの壁が低くなった気がする。
もし仮にエレベータで二人きりになっても、緊張しないでいられそうだ。
――小林主任といえば……。
ここでふと静也は、小林和江の従弟が描いているという漫画を思い出す。
漫画はあまり読まないが、あの小林主任が「よろしく」と宣伝していたので気になり、その漫画が載っているというコミック誌を手に取ってみた。
確かに印象には残った。
ただ残酷描写がえげつなく、殺される女の顔の個々のパーツがどことなくみすず先輩に似ていたことが非常に不愉快だった。
理沙には読ませたくなかったので、コミック誌は黒野先輩にあげてしまった。
従弟のために漫画を紹介していた小林主任も「漫画には詳しくないけど、今の時代はこういうのがウケるらしいの」「好き嫌いは分かれるだろうけど、とりあえず読んでみて」と言っていたので、主任にとっても本心からお薦めしたいような作品じゃなかったかもしれない。
外に出ると、冷たいビル風が吹きつけてきた。
静也は足早に駅へ向かう。早く家に帰って、涼也と理沙の顔と、文鳥たちのモッコリしたお腹を拝みたい。
それでも帰宅すると、てんやわんや。すぐにくつろぐなどできない。和みたい気持ちは吹っ飛ぶ。
けど静也にとって、ここからが本領発揮。
まず涼也をお風呂に入れ、その後、涼也を理沙にバトンタッチして、自分もお風呂に入る。
風呂から上がったら、理沙と交代して涼也の相手をしながら、夕飯の準備。理沙は「鍋のシチューにルーが入っているから、かき混ぜて溶かしておいてね」とバタバタと浴室に向かって行った。
小さい子どもがいると落ち着いて何かをするってわけにいかず、たまにイライラすることもあるけれど、何とかやっていけている。
涼也を見守りながら、静也はシチュー鍋をかき回す。
今夜はビーフシチューだ。
理沙がお風呂から上がり、涼也に食事をさせ、自分たちも晩ご飯。
もう毎度のことだが、涼也はよくこぼす。口からもシチューが溢れ、周りを汚しまくる。白くて丸いホッペはべちゃべちゃだ。
「ああ、もう~」
ため息を吐きつつも、交代で涼也の世話をしながら、食事を何とか済ませる。
いつか、ゆっくりとくつろぎながら食事がしたい。涼也が4、5歳くらいになれば、もう少し落ち着くだろうか。
そんな涼也がやっとお眠となったところで、リビングで夫婦しばしの休息タイム。
「ねえ、年賀状、今年はどうする?」
「あ、ああ、そうかあ、年賀状の用意をしないとまずいよなあ」
「やっぱり涼也の写真入りはやめておいたほうがいいよねえ」
「そうだな」
理沙の言葉に頷きつつも、もう職場の誰も気にしていないだろう、とは思う。
けれど無難に、面白味はないけれどごくごく普通の儀礼的な年賀状にしておこう。
目立たずに地味でいるのが自分たちには合っている。
テレビか新聞かで誰かが言っていた。『家族の写真入りの年賀状は幸せの押し売りだ』と。
こちらは押し売りしているつもりはなくても、受け取るほうはそう思う場合もあるのだろう。
思えば自分たちだって、家族を失くした子どもの頃、家族と幸せそうに暮らしている同級生の姿を見せつけられるのは辛かった。
もし当時、同級生らから家族の写真入りの年賀状などもらったら、胸が掻きたてられ、寂しさにどうしようもない気持ちに沈んだはずだ。
――そうだった……なぜ、あの頃の気持ちを忘れてしまい、安易に涼也の写真入り年賀状を作ってしまったんだろう。
幸せは人間を鈍感にさせてしまう。
涼也の写真入り年賀状は男性職員にしか送らなかったが、男性の中にだってあまりいい気持ちがしなかった者がいたかもしれない。
これからもずっと家族の写真入り年賀状はなしだ。
そういったことは、自分たちに関心を寄せてくれ、心から幸せを願ってくれているごくごく親しい内輪の人間にやるべきだ。けれど静也と理沙にはそんなに近しい人間はいない。
そのうちアナログ的な年賀状そのものが廃れていくだろうし、ネットを使ってまで新年の挨拶をするつもりはない。
寂しい考えかもしれないけれど、これは自分たちなりの配慮なのだ。人に嫌な思いをさせたくないし、自分たちも嫌な思いをしたくない。
そんな壁を作っていたら、いつまで経っても人と親しくなれないことは分かっている。
でも、そういう生き方しかできないのだ。
それでもいつか……人によっては、壁が低くなっていくかもしれない。例えばあの小林主任のように。
何がきっかけでそうなるのかは分からない。これも『縁』としか言いようがない。
静也は軽くため息を吐き、頭を切り替えるように話題を変えた。
「その前にクリスマスだよなあ」
そのため息に呼応するよう理沙は苦笑する。
「涼也がいるから、落ち着かないクリスマスになりそうだけどね」
この頃の涼也はよく動く。あんよができるようになり、あちこちでおいたをする。何か気になるものを見つけると拾ってお口に持っていく。目を離すと何をするか分からない。
自己主張も出てきて、ちょっと我がままになったり……本当に厄介な存在になる。「んも~勘弁してくれ」って思う時は、文鳥の『ふっくら』と『ぷっくり』を見て気分を和ませる。
外はいつの間にか、雪が散らついていた。が、カーテンを閉めた暖かい部屋の中にいる静也と理沙は気づかず、クリスマスやお正月の計画に花を咲かせる。
そこへ涼也のギャン泣き。
休息タイム中断。これもいつものこと。
「あらら、どうしたんだろ」
理沙はチラッと静也を見る。
「仕方ないなあ~」
静也は和室にいる涼也を見に行き、抱っこしてみる。
なかなか泣き止まないので、とっておきの『高い高い』をするが、それでもダメだった。
涼也は顔を振り振り声を絞って泣き続ける。
なので結局、理沙と交代。
理沙が抱いてあやすと、ようやく泣き止んでくれた。
「んも~、ママじゃないとダメかあ」
「パパ差別だ……『高い高い』はパパにしかできないのに」
「そりゃあ、こっちはずっと涼也と一緒にいるんだからね。ほら、機嫌直ったみたいだからパパと交代」
理沙は涼也を静也に預ける。ここでまた泣かれるか、静也としてはちょっとドキドキだったけど、涼也はおとなしくパパに抱っこされた。
――ん~、かわいい。
ここで癒されるか、最初からママが抱けばいいだろうとイライラするか……そこがイクメンの分かれ道。
イライラ派だったら、ここで夫婦喧嘩なんだろうな――静也は涼也を抱きながらそんなことを思う。
ま、こういった相性も結局は『縁』だ。
運とも言えるのかもしれない。縁や運がどう転ぶのかは分からないけれど、それが人生というもの。
ということで、仕事と涼也の世話で明け暮れた四条夫婦のこの一年はあっという間だった。大変なこともあるけれど二人とも概ね幸せである。
来年もこの幸福が、この縁が続きますように。