以下、本文。
深秋の11月下旬。すっかり日が暮れ、街並みの輪郭がおぼろげになり、あちこちで家々の灯が燈る頃。沢田先生のアシスタントの仕事が終わり、長山春香は帰途に就いていた。
時折吹く風が冬を運んできたかのように冷たい。
春香は物思いにふけりながら歩を進める。
――『先生のオバさん』のことで、春香は心に影を落とす。
沢田先生は親戚の家を間借りしているので、仕事部屋に出入りする時やトイレを借りる時、お暇する時、先生のオバさんに会うことがあった。
その時はいつも、オバさんのほうから「お疲れ様」と声をかけてくれていたのだけど……
今回の仕事の間は、オバさんの様子がずっとおかしかった。春香から視線を外し、会釈はするものの無言で、よそよそしさを匂わせ、こちらに近づいてくれるなという空気を発していた。
春香は浅くため息を吐く。
そうだった、これが世間の基本仕様(デフォ)。
自分は外れ者。圏外。疎まれる存在。
担当の浅野編集者や沢田先生、今まで春香を臨時で雇ってくれていた漫画家先生たちのほうが特殊なケースなのだ。
これから先生のオバさんと鉢合わせしないようにしなければ。
そんなことを考えていたら、中学3年の時に起きたある事件が思い起こされた。
――中学2年の時、春香はイジメにあっていたが、その2学期から学校側が春香に特別に注意を向けるようになり、分かりやすいイジメはなくなっていった。
学校が断固たる態度で監視体制を敷けば、イジメられる側が実害を被るようなことはなくなる。
ただ、そういった監視体制を好まない連中もいて、学校側も一人の生徒のためにそこまでできないと二の足を踏むこともある。学校にとっては、いじめっ子もいじめられっ子も同じく守るべき生徒であり、加害者を特定し、罰することも憚られるのだろう。
が、春香は児童養護施設の入所者であり『普通の子よりも恵まれない圧倒的弱者』という立場であったことから、学校側も真剣に動かざるを得なかったようだ。
四条カップルのアドバイスに従い、イジメを告発する手紙を教育委員会へ送ったため、その教育委員会の指導もあったはずだ。「改善されなければマスコミに訴える」という脅し文句が効いたのだろう。
春香が特別に学校から保護されている空気を、同級生らは敏感に嗅ぎとっていた。弱者ポジションは無敵だ。
結果、彼らは春香から距離を置いた。
春香もクラスメイトらにシャッターを下した。
3年になり、クラス替えがあっても、その空気は引き継がれた。ほとんどのクラスメイトらは春香を透明人間として扱った。
が、その空気を読まない子が新しいクラスにいた。中1の時、春香と一緒のグループだった漫画好きの女子生徒だった。
彼女は春香に近づき、親しげに話しかけてきた。
春香もつい、昔のよしみで応答してしまった。
そして――その時から、クラスメイトらによるその女子生徒への無視が始まった。担任の女教師は春香のことには気を配っていたものの、そのことに気づかなかった。
――私と親しげに口を利いたから、その子はハブられてしまった……。
その女子生徒には申し訳ないことをした。
話しかけられても春香が無視してあげれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
その女子生徒もなぜ自分がクラス中から弾かれているのか察したのだろう。それ以降、春香に近づくことはなかった。
が、その女子生徒はそのままクラスメイトらから無視され続けた。
休み時間、ポツネンと独りでいるのは春香とその女子生徒だけ。
春香は実害を被ることがなくなっただけで良しとしていたが、その女子生徒は居たたまれなかったのだろう、ハブられるのが苦痛だったようで、そのうち学校に来なくなってしまった。
春香も気になったが、自分が関わればますますその子は周りから疎まれる。
もう関わってはいけない。
自分はこの場にはいない人間として徹するのだ。
それに――
春香はこうも思っていた。その女子生徒には『学校に行かなくても受け入れてくれる家庭』がある……。自分よりはずっと恵まれている。
学校へ来なくて済むのならば、わざわざこの牢獄へ戻ってくることはない。
春香は傍観するに留めた。自分にできるのは誰に対しても二度とシャッターを上げないことだった。
しかし事態は拡大してしまった。
春香の担任教師までも休職に追い込まれた。不登校になったその女子生徒への対処に追われ、ほかの生徒のことがおざなりになったのだろうか、一部の生徒の親からクレームが来たらしい――そんなウワサを耳にした。
不登校になった女子生徒の親からも責められ、担任は精神的に耐えられなくなったのだろう。
担任にとっては『絶対弱者』の春香のことも重荷で、面倒な存在だったに違いない。休職する前、春香を見て、こんなことをつぶやいた。「弱者になれば私も誰かに助けてもらえるのかな」と。
この時すでに担任は心を病んでいたのかもしれない。
結局、担任は休職したまま、不登校になった女子生徒もクラスに戻ってくることはなく、中学卒業となった。
その後、彼女たちがどうなったのかは知らない。
――沢田先生も「この家を出ることになった」「1月か2月には引っ越す」と言っていたっけ……。
春香の頭の中で女子生徒と沢田先生の姿が重なる。
沢田先生は「この家の息子さんが家族を伴って戻ってくることになったから」と、もう一人のアシスタントに説明していた。
にも関わらず春香は、自分があのオバさんに嫌われたからではないかと邪推する。
だから春香を雇っている先生も追い出されることになったのでは、と。
春香に関わったことで、沢田先生もあの家から弾かれた――そう、春香に話しかけたことでクラス中からハブにされ、クラスから弾かれたあの女子生徒と同じように。
けれど……沢田先生から離れ、縁を切るのは憚れた。
――先生のアシスタントは続けたい。先生からやめてほしいと言われない限り。
それは春香が初めて持った『執着』でもあった。
いつもは何か問題があれば簡単に手放していた人との縁。でも今回はこの縁を大切にしたかった。
今、先生の作品からいろいろと刺激を受けている。
特に、作画を手伝った今回のストーリーと絵はすごかった。『男に殺されてしまう容姿の醜い女の姿』に吸い寄せられた。
漫画で描かれていたその惨めな女の姿がどこか自分とリンクした。
――醜い自分もこの世の人たちから虐げられ、心を殺されてきた。
惨め。
この言葉が春香の心を侵食した。
今まで、自分を『惨め』だと思ったことはなかった。
自分なんて、この世なんて、どうでもいい存在だから。春香自身、そう思っていた。
だけど今、猛烈に悔しさを感じていた。
惨めなままで終わるのは悔しい。
惨めなままであっても一矢報いたい。
そう――『悔しい』と思うのも初めてだった。
沢田文雄の漫画は春香の心を引っ掻き回した。
沢田文雄の漫画は春香が蓋をしていた感情を解き放った。
春香にまとわりついていた「この世からいつ消えてもかまわない」という一種の自滅願望が消え、その代わりに闘志が芽生えつつあった。
春香の思考が、逃げから攻めに転じた。
春香に自尊心が生まれた。
漫画にはこれほどの力があるのか。これが「表現する」ということなのか。
そのことに気づいた時、心が大きく揺さぶられ、かつてない強い欲求に駆られた。
――自分も誰かに、この世に爪痕を残すような作品を……。
今まではただ好きな絵を描きたいから描いていただけだった。
醜悪な現実を忘れ、夢の中に入り込みたいから描いているだけだった。
けれど、それじゃあこの世に一矢報えない。
春香の中に、明確な目標が、そして将来への望みが生まれようとしていた。
夜に深く沈む住宅街。
街灯が春香の行く路地を照らす。
――表現者として生きていきたい。
過去は消えない。ならば過去を利用し、作品の材料にするまでだ。
向かい風を浴びつつも、過去の足かせを外した春香はその道を確かな足取りで進んでいく。
その姿を見守るように、澄んだ夜空に浮かぶ星々が月と共にひそやかに煌めいていた。
過去に囚われていた春香はついに未来との縁を結ぶ。