醜い世界―最下層に置かれた漫画家の卵・長山春香の残酷な世界
最下層というよりも圏外に置かれた長山春香。
自分もみっともないけど、あの人たちは頭の中がみっともない。残酷で醜いこの世界を思う。
前話「漫画編集者・梅雨のある日」と同時刻の、漫画家の卵・長山春香視点の物語。
『ゾウ』に似た容姿、児童養護施設育ち・高校中退の長山春香の悲惨な過去とは。
なぜ長山春香はいじめの標的にされたのか。
※中学時代のイジメシーンでは、番外編「あだ名―中秋の名月」と重複します。こちらは『白ブ~』こと月子(長山春香の同級生)の視点で描かれてます。
※長山春香が話題となる番外編はこちら3編↓では、以下本文。
・・・・・・・・・・
地面を穿つような勢いで雨が落ちてくる。
○○出版社を出た長山春香はネームを入れたカバンが濡れないよう抱き寄せながら、傘を差し、自宅アパートへ向かう。ネームだからいいけれど、これが完成原稿だったりすると本当に気を遣う。(ちなみに長山春香はアナログ派だ)
――あの時も、こんな雨の日だったっけ。
昔、傘を貸してくれた同じ施設にいた先輩のことをふと思い出す。
中学2年の梅雨の時季――6月の終わり頃だった。
あの日も学校で傘をどこかに隠されてしまった。外は周囲が霞んで見えるほどのザーザー降り。当分、止みそうもなかった。
美術の時間に描いた水彩画を持って帰ろうと思っていたのに……カバンに入れただけじゃ濡れるかもしれない。
かと言って、教室の机の中に置きっぱなしにすることもできない。クラスメイトらに破られるか捨てられるかしてしまうだろう。
どうしたものかと暫し校舎の玄関口で突っ立っていたら、声をかけられた。
「傘、ないの? 施設の子だよね」
振り返ると、そこにいたのは「ヤバ女」と影で呼ばれていた同じ児童養護施設の一学年上の先輩だった。
春香は何の反応もせずに身を硬くした。
するとヤバ女の後ろから男子生徒がやってきた。
確か……この男も施設の先輩で、ヤバ女と同じ学年だったはず。施設の子たちの間では「近寄らないほうがいい」とウワサされている……名前は『四条』といったっけ。昔、施設の子に酷い暴力を振るったらしい要注意人物だ。なので、この男の先輩のほうだけ名前の記憶があった。
ヤバ女と四条先輩は施設の人たちから距離を置いていた。
人づきあいが苦手な春香も、施設では自室に籠りっきりだったから、この先輩たちと今まで口を利いたことがなかった。
「この傘、貸すよ。施設へ戻るんでしょ」
ヤバ女は気軽な感じで春香に傘を手渡すと、四条先輩を指差し「私はこの人と図書館に行くから。あとで返してくれればいいよ」と言って、四条先輩の差す傘に入り、行ってしまった。
人から親切にされることがほとんどなかった春香は、今でもこのことを鮮明に憶えている。
けど女の先輩の名前は思い出せない。脳に『ヤバ女』としかインプットされていない。
危険人物・四条先輩の彼女で『ヤバい女=ヤバ女』って呼ばれているから、もっと怖い人かと思ったけど……何だか違うようだ。
そう――このあと、傘を返しにヤバ女を訪ねた時も、こんなことがあったっけ。
「今日は朝から雨が降っていたから、傘を忘れたわけじゃないよね。誰かに隠された?」
ヤバ女にそう訊かれて、春香は微かに頷いた。
「これは四条君が言っていたんだけど……イジメをやめさせるには教育委員会へ手紙を書くといいって。で、ココが大事なんだけど『児童養護施設の子であること』を明記して『差別されている』って書くの。そして『改善されなければマスコミに訴える』ってね」
ヤバ女は長々としゃべった。こんなにしゃべる人だったのかと春香は意外に思いながらもヤバ女を見つめた。
しかも春香のためにアドバイスしてくれているようだったから、なおさらだ。
「学校の先生たちは相当、あなたに気を遣ってくれるはずだよ。
だから実害を被るイジメ……例えばモノを隠されるとか壊されるとか、暴力ふるわれるとか、そういったことはなくなるはずだって。
ただし陰口叩かれたり、距離を置かれたり、無視されるのは止められないだろうって。
ま、私なら実害を被るイジメが止むなら、陰口&無視されるほうは気にしないけどね。
だって、どうせそんな連中と仲良くなれるわけないんだし。関わらないでおいたほうが清々するでしょ。
……って余計なお世話だったらごめんね」
そう言ってヤバ女は自室に引っ込んだ。
ヤバ女は必要以上のおせっかいはしなかった。
以降、施設や学校で会っても、目礼はするものの春香に話しかけることはなく、春香のほうも近づくことはせず、親しく交流することはなかった。
それでもヤバ女が伝えてくれた『四条先輩からの助言』は春香の頭に残った。
・・・
長山春香は中一の時に児童養護施設に入所した。今まで面倒を見てくれた祖母が亡くなったからだ。ほかに養育してくれる親族はいなかった。
春香の両親は、父親は最初からおらず、母親は男をとっかえひっかえ。そのうち母親も家を出てしまい、小学校1年の春香は放置された。
近所の人が児童相談所に通報し、やがて母方の祖母の家に引き取られることになった。
が、そこも春香にとってあまり居心地のいい場所ではなかった。
祖母の、春香の母に対する愚痴はとどまるところを知らず、それは陰鬱なお経のようだった。
常に春香の耳に流れてくる母の悪口。春香は黙って聞き流した。
そんな祖母の家での暮らしの中で、春香は絵を描くことに目覚めた。紙と鉛筆があれば足りる貧乏人に許された遊びだ。どうしても色をつけたい時だけ、絵具を使った。
絵は時間と寂しさを忘れさせ、癒しと安らぎを与えてくれた。
学校でもおとなしく、教室の隅っこで息を潜めるように存在していた春香だったが、絵が上手かったのでクラスメイトから一目置かれていた。
小学校では一芸に秀でた者はイジメられにくい。絵は春香を守ってくれた。
そして中学に上がった時、祖母が亡くなった。
寂しさに慣れていたはずの春香だが、やはり祖母の死は哀しかった。厳しい年金暮らしの中、祖母は春香を扶養してくれたのだ。
しかし、春香は涙を流すことはなかった。泣き顔はさらに自分の顔をみっともなくさせるから……。
――みっともない。
これは祖母の口癖だった。春香もよく言われた言葉。
今はどこにいるのか分からないけれど自分の両親も生活がだらしなく、みっともない人だ。
そう、みっともない両親から、自分は生まれた。
そのみっともなさは、形として自分の顔に表れてしまったようだ……。
母親の顔はもう覚えていないけれど、写真で見る限り平凡な顔立ちをしていた。父親のほうは写真もなく、どんな顔をしていたのかまるで分からない。
遺伝としては自分は父親似なのだろうか……。
小学生の頃はさほど自分の容姿は気にならなかったが、テレビや雑誌などで「こういう顔が美人でかわいい」という情報に触れていくうちに、自分の顔は『美人・かわいい』からかなり遠い、世間でいうブスの範疇に入ると自覚するようになっていった。
――自分の顔はみっともない。
この頃から春香は感情を顔に出すことを控えていた。表情を崩せば、さらにみっともない顔になる。
笑えば、ガタガタの悪い歯並びを見せてしまう。泣けば、鼻が赤くなって、瞼が腫れぼったくなり、小さい目がますます小さくなってしまう。
だから感情は封じ込め、全てを絵に込めた。
春香の顔は表情が乏しかったが、春香の描く絵は情感豊かだった。
祖母が亡くなった後、児童養護施設へ送られることになり、転校も余儀なくされた。
通っていた中学の学区と養護施設の学区が違ったためだ。
春香の入所した施設では中学生から個室が与えられた。
当時、中3の『ボス』と呼ばれていた子に威張られ、パシリにされたりしたが、おとなしく言うことを聞いていれば、意地悪なことはされずに済み、あとは自室に引っ込んでいれば難を逃れることができた。
そういえば……あの『ヤバ女』もその頃に入所してきたような……。
いや、記憶はあまり定かではない。自分を守るのに必死で、他人のことなど気にしてなかったから。
学校では、中一の2学期半ばで転入したため、クラスはすでにグループができ上がっていて、途中からどこかのグループに入るのは難しかった。
コミュニケーション能力に長け、陽気で明るい性格ならば良かったが、春香はそうではない。
どこに住んでいるのと訊かれ、正直に「養護施設」と答えてしまい、一部の生徒からは完全に引かれた。
今思えば、その子たちの親がそうするように仕向けたのかもしれない。素行の悪さが目立つ施設の子は一部の大人たちからも嫌われていた。
それでも春香は絵が上手いことが知られるようになると、漫画好きな子たちのグループに入れてもらえることになった。いわゆるオタクというヤツだ。
春香自身、今まで有名な漫画やアニメ作品なら普通に楽しんできたが、それについて深く濃く掘り下げることはなかった。けど、グループの子たちに感化され、次第に漫画の世界にのめり込んでいった。
世間ではオタク文化が認められつつあったが、それでも『苦笑もの扱い』だった。学校でもオタクグループは何となく見下されている雰囲気があったものの、仲間で固まっていればイジメられることもなく平和に過ごせた。
中学2年生になると、施設では『ボス』がいなくなり、多少、羽が伸ばせるようになった。
学校ではクラス替えがあり、新たにグループが形成され、春香はオタク女子と一緒になり、3人グループを結成した。
教室には、1年の時にはあまり見なかったちょっと大人っぽい感じのおしゃれな子たちが割といて、クラスの中心的な存在になっていった。今でいうキラキラ女子だ。
勉強ができる真面目な子たちや部活に生きるタイプのグループは鳴りを潜め、キラキラ上層グループとは当たらず障らずといった感じで、お互いに距離を置いていた。
クラスの主導権を握ったキラキラ女子グループはあからさまにオタク3人組を見下してくるようになった。
「ねえ、架空の人物に入れ込むのってそんなに楽しい?」
「って、リアルでは相手にされないからってあきらめちゃダメだよ」
1年生の時にはさほど感じなかったけど、自分たちグループはクラスの中でランクが一番下であることを意識させられた。
キラキラ女子グループは、ほかのグループの子たちをからかうことはなかった。オタクグループだけを哂った。
学校は大人社会の縮図だ。
オタクならバカにしても大丈夫だろう、反撃しないだろうと軽んじていたのかもしれない。
実際、自分たちはヘラヘラと笑ってごまかし、怒ることはしなかった。キラキラ女子グループが弄り飽きるのを待った。
だが、そのうち一部の男子生徒からも、からかわれるようになった。
しかも男子生徒らは、容姿の特徴をあげつらい、オタクグループの子たちにあだ名をつけた。
一人は『もやし』、一人は『白ブ~』、そして春香は『ゾウ』だ。
確かに『もやし』は身体がひょろんとして、顔も細長く、目も鼻も口も小作りで薄い印象の女子生徒で、『白ブ~』は肌が白く太っていた。
そして固太りしている春香は色黒で皮膚が硬そうに見え、蒙古襞が覆う目は小さく、両目が離れていて、何となく動物のゾウに似ていた。
そのうち、あだ名は定着してしまい、ほかの生徒もそう呼ぶようになり、侮蔑の空気はクラス全体へ広がっていった。
そんなある日の昼休み時間。
男子生徒らは「オタク3人の中で誰が一番ブスか」という話をし始めた。わざと春香たちに聞こえるように大声で。
春香たち3人は固まった。何か話題を探そうとするも上滑りになる。耳は完全に男子生徒らのほうへ向いていた。
「やっぱり、ゾウさんだよなあ」「僅差でゾウさんに決定だな」「ブスの王者」
男子生徒らの笑い声が届く。
その時、春香は『もやし』と『白ブ~』がホッとする表情をしたのを見逃さなかった。
2人は居心地悪そうに春香から視線を外し、押し黙ってしまい、微妙な空気が覆った。
それが今まで仲良しだった3人が、2対1になった瞬間だった。
春香はその場から逃げるように「トイレ行ってくる」と席を立った。
心が痛かった。自分の容姿が劣っているのは自覚していた。それでも実際に他者から哂われると、引き裂かれるような苦痛を感じずにはいられなかった。
『もやし』と『白ブ~』は決して美人ではないが、着飾ってメイクや髪形に気をつければ、おそらく標準レベルに到達する女の子だ。でも自分は違う……。
この時から『もやし』と『白ブ~』とは壁ができてしまった気がした。
それが決定的になったのは、休日に一緒に画材店に行こうと約束をし、待ち合わせ場所に2人が来なかったことからだ。
1時間ほど待ちぼうけを食らった。しかし連絡を取ろうにも春香は携帯電話を持っていない。公衆電話へ行っている間に2人が来てしまうかもしれない。行き違いになってしまうかもしれないと思い、さらに30分ほどそこにいた。
やがて2人はもう来ないことを悟り、春香は施設へ帰った。こちらからは連絡をとらなかった。
翌日、学校へ行き教室に入ると、『もやし』と『白ブ~』は春香に顔を合わせようとしなかった。寄ってくれるなというバリアを張っているのが分かった。
心臓がきゅんと縮まった気がした。ついに独りになってしまった。
オタクグループ3人組が分裂したことは、クラスメイトたちにも分かったようだ。
春香は誰とも視線を合わせないように気をつけた。
視線が合うと「何、ガンたれてるんだよ」「顔、気持ち悪いんですけど」とモンク言われたり、「ゾウさん、その眼、怖い~」「目つき悪過ぎ」と哂われるからだ。
そうやって常に顔を下を向けて過ごしていると――今度はこんな声が聞こえてきた。
「地面とお友だち」「友だちは地面。お似合いじゃん」
男子生徒らは、いつも俯いている春香をそう揶揄した。
ふと、仲間だったはずの『もやし』と『白ブ~』を伺うと、キラキラグループの子たちに耳打ちされ、春香を見て笑っていた。
――そうか、あっちのグループにすり寄ることにしたのか……。
強い者に巻かれる。よくあることだ。
『もやし』と『白ブ~』は自分の身を守るために、クラスという村社会の中でランクをひとつ上げるために、最下層から脱するために、春香を生贄に差し出したのだ。
クラスを牛耳る上層グループも、春香を孤立させるべく『もやし』と『白ブ~』を取り込んだのかもしれない。春香をイジメの標的にするために。
――でも、なぜ自分だけが標的に選ばれてしまったのか……。
クラスの一番のブスということで一番劣っていると思われたこと、施設の子ということで中間層に位置する子たちが春香から距離を置いていたこと、また、おとなしい春香は反撃できないと甘く見られたことも大きかっただろう。
また、表情も乏しく喜怒哀楽がない春香はかわいげがなく、ややもすると不気味な存在に見え、目障りだったのかもしれない。
春香は一部のクラスメイトたちからイジメを受けるようになった。ほかの生徒らは見て見ぬふりだ。『もやし』と『白ブ~』も完全に春香を無視した。
イジメの内容は――カバンや机の中にゴミを入れられたり、モノが隠されたり、ノートに悪口書かれたり、ばい菌扱いされたり、足を引っかけられたり――よくあるイジメ風景だ。
ただ春香にはいじめられて恥ずかしい、という気持ちはあまりなかった。
もともと自分はみっともない存在だ。人に好かれたり愛されたりということがよく分からない。
自分は親からでさえ捨てられた存在なのだから、他人から無視されたり嫌われたりするのは当然の帰結。
もちろん、イジメられるのは不愉快だ。できれば避けたかった。でも、いつかイジメに遭うことを予感していた。
そしてついにその日が来た。
……心のどこかで覚悟はしていたのだ。
学校生活は辛いには辛いけど何とか耐えられそうだった。自分は人に好かれようとは思っていないし、友だちもいらない。
絵が描ければそれで満足だった。
それに、いじめっ子たちの言動は矛盾だらけだ。
彼らは春香をばい菌扱いし、気持ち悪がるくせに、春香の持ち物に悪戯をしたり、春香に触れ、突き飛ばしたりする。
――おかしな人たち。ちょっと頭が悪そう。
自分はみっともない顔をしているけど、彼らは頭の中身がみっともない。
なので頭の悪い下劣な連中からの悪口はさほど気にしないでいられた。
それでも持ち物に悪さをされるのは困った。特にスケッチブック、絵具やパレット、筆など絵を描く道具は困る。描いた絵を傷つけられるのはもっと嫌だった。
――絵だけは守りたい。
そして夏休み前、春香はついに動いた。
ヤバ女の言うとおりにしてみた。
教育委員会のことを調べ、拙いながらにも手紙を書き、児童養護施設にいる自分は学校で差別を受けていると訴えた。
すると――
それから暫くして、夏休み中に学校の先生たちと面談をさせられた。施設の職員からもいろいろと話を訊かれた。
絵を守るためだ。しゃべるのは苦手だったけど、春香は質問されたことについて何とか答えた。
2学期に入って程なく、春香の教室の雰囲気が変わった。
担任や学年主任が常に教室を監視するようになり、春香の身と持ち物を守ってくれた。
特に担任の先生は「何か変わったことはないか」とまめにチェックし、過剰なほどに春香のことを気遣うようになった。
春香への『分かりやすいイジメ』はピタッと止まった。
春香は思った。担任に直に訴えただけでは、これほど注意を払ってくれなかったかもしれない。
ひと足飛びに教育委員会へ訴えたからこそ、学校側は春香を守るために徹底的な監視体制を敷き、対策に取り組んだのだろう。
ヤバ女と四条先輩のおかげで助かったと言っても過言ではない。
が、春香はクラスメイトらから距離を置かれ続け、避けられた。
こんなこともあった――ある日、誰かの消しゴムが転がってきたので、つい拾ってしまったら、小さな舌打ちと共にこんな声が聞こえた。「チェ……もう消しゴム使えねえな」
どうやら自分が行う親切は他人には迷惑なようだ。
なので、それからは春香もクラスメイトらを無視した。
自分は透明人間でいい。
だから修学旅行や学園祭、運動会など学校行事も全てさぼった。
先生や施設の職員も、春香を腫モノに触るように扱い、強制参加させるようなことはしなかった。
そういえば……ヤバ女と四条先輩もそういった学校行事を休んでいたっけ。
彼らは施設の人だけではなく学校の人たちからも距離を置き、誰とも親しくなろうとしなかった。
春香は彼らに元気をもらえた気がした。そんな生き方もありだと思うとラクになれた。
自分は周りに馴染めない。この世界とはどうも合わない。
春香は人から憐みを受けたり、あるいはバカにされ軽んじられるよりも、『孤独』『孤立』を選んだ。人からは徹底的に距離を置いた。
その後、春香は絵を描く時間を作るために、誰でも入れる偏差値が低い公立高校に行き、漫画家を目指してみることにした。
何とかストーリーを作り、賞に応募してみたら落選はしたものの、浅野仁という編集者から連絡がきた。「絵に惹かれた」ということで目をかけてもらえることになった。
馴染むことができなかった社会とリンクした瞬間だった。
それからはよく学校の授業をさぼって、漫画修業に時間をつぎ込んだ。
その頃にはアシスタントの仕事がもらえそうなくらいの力がついていたので、結局、高校は中退してしまった。
振り返ってみれば――漫画を仕事にしようと思いついたのも、中学時代、オタクグループにいたおかげかもしれない。そこで漫画に興味を持ち、漫画を深く知ることができたのだから。
春香と同じように見下され、陰で皆から哂いものにされていた『もやし』と『白ブ~』。彼女たちは何とかそこから脱したかったのだろう。春香を生贄にしてでも。
そう、『もやし』と『白ブ~』はオタク趣味を持っていたものの、周りの人に好かれたい、本当は周りと同化して受け入れられたいという『普通の感覚』を持っていた。周囲が決める価値に自分を合わせて、周囲が決めるランクを気にし、上層にいる子たちに憧れていた。
でも春香は違った。別に周りに好かれなくても構わなかったし、好かれるということがそもそもよく分からない。上層にいる子たちに憧れも抱かなかった。
――自分は、クラスメイトたちの価値観に同化しようとしなかった――。
クラスメイトらは春香の異質さを嗅ぎ分けた。上層に憧れない春香は異端だ。
そんな春香は、最下層というより圏外というランクづけをされた。
彼らは春香を傷つけても罪悪感を持たない。
だって、春香は圏外だから。異分子であり『同じ人間』ではないのだから。
――油断してはいけない。
漫画編集者・浅野仁のように絵を認めてくれる人がいるとはいえ、自分は世間一般の社会から弾かれた存在であることは肝に銘じている。
子どもの学校社会は、大人社会を映す鏡でもある。
大人は本音を隠し取り繕うが、子どもは隠さないだけのことだ。
世間は「多様性を認めよう」ときれいごとを言うけど、本音は違う。
異質な者、周りと同化しない者を差別し、遠ざけたい、排除したい。それが蔑視やイジメとなって顕れる。
それが人間という動物なのだ。
――なあんだ、実は皆、醜い生き物なのかもしれない。
醜いのは自分だけではなかった。
そう思ったら、おかしくなった。
けれど心の中で笑うに止めておく。春香は相変わらず無表情だった。
――帰ったら、サワ先生に連絡をしてみよう。
今号から始まったサワ先生の連載作品、この先生の作画の手伝いができるならと久しぶりにワクワクしていた。
雨は勢いよく傘を打ち、春香のワクワク気分をさらに盛り上げる。
ドシャ降りの様相を見せる豪雨にふと、自分を含めた世の中の汚いものが洗い流されればいいのにと思う。現実は、汚い水が路にあふれるだけで、澱んだまま蒸発するのを待つしかないのだろうけれど。
地下鉄に乗るため、春香は駅改札へと続く地下へ下りた。
あれだけ賑やかだった雨音の世界から遮断され、すえた臭いと共に人々のざわめきだけが薄く反響する地下道に、盛り上がっていた気持ちがしぼんでいく。グシュグシュと不快な音を立てるスニーカーの気持ち悪さに、春香はそっとため息を吐く。
※短編連作小説「これも何かの縁」目次はこちら↓