短編連作物語「これ縁」フェミニスト福田みすずとバトルしたその後の郷田浩。以下本文。
クリスマスシーズンに入った真冬。
仕事を終えた郷田浩は帰途に就く途中、前号から気になっていたコミック誌をコンビニで買った。
まだ妹の薫は帰ってきていないようだ。
自宅アパートに着いた郷田は取りも直さず居間に入り、電灯とエアコンを点ける。古いせいか、あまり効きは良くない。冷え切った部屋の中で外套を着たまま、さっそくそのお目当ての漫画のページを開く。
この連載漫画は以前から何となく読んでいたのだが、休載した前号で『第二部予告』として次回の話が紹介されており、それが妙に引っかかっていた。
その内容とは――地味で不細工な女と見合いをし一旦は結婚を決意した要介護の親を抱えるイケメン青年。そこで陰惨な事件が起きる!――といったものだった。
その時点ではまだ「へえ、このイケメン青年とやら、何だかオレと境遇が似ているな。どんな話なんだろう」と興味をかき立てられたに過ぎなかった。
だが、第二部が開始されたその漫画を読み進めていくと、既視感に襲われ、それはやがて憤りへと変わっていった。
ページをめくる度に浩の眉間のしわが深くなっていく。
後半はもう怒りに震えながら、それでも何とか最後まで読み切った。
どう見ても、これは自分とあの福田みすずをモデルにした話だった。
――でも、どうして漫画のネタにされているんだ? 福田みすず側がこの漫画家にネタを提供したのか?
けど、ここで浩は首をひねる。福田みすずにとってもこの物語の内容はサイテーである。
福田みすずのモデルとなった女は無惨に殺されるのだ。救いは一つもない。ただただ惨めに描かれているだけだ。
「それにしても……漫画の不細工女、よく描けているよな。雰囲気があのドブスにそっくりだ」
郷田浩は薄笑いを浮かべたものの、福田みすずの不細工な顔が脳裏にはっきりと像を結び、一瞬たじろいだ。
二度と思い出したくない顔、早く忘れたい顔が今もなお、浩の記憶にべっとりと貼り付いていた。
――漫画の最後にあるように、あの女はオレの頭の中に住み続けるのか?
そう、漫画はこう締めくくられていた。
『郷浩志の記憶からこの女が消えることは決してない。浩志にとって忘れられない女となった。女の身体は消えたが、いつまでも浩志の頭の中に存在し続けるだろう。それが郷浩志への罰だ』
郷田浩はゾッとすると共に、改めて福田みすずに嫌悪の念を抱く。
――だいたい生意気なブスっていう存在が許せない。
見合いで会った初めの頃は、福田みすずも自身の分をわきまえ、服装も地味でおとなしそうにしていた。
浩としても、その時は母親の介護という問題を抱えていたため、家族のためにみすずとの結婚を考えていた。こちらも悪条件だったから、分をわきまえたブスならギリギリセーフだと譲歩した。こっちも仕方なく妥協したのだ。
それに福田みすずを断ったところで、要介護の親を抱える男と結婚してくれる女など、そう見つからない。見つかったとしても、売れ残りの……福田みすずと同程度のブサイク女しかいないだろう。
公務員という絶対的安定職を持つ福田みすずで手を打っておくしかない。
ルールや条件を詰めていく過程で、福田みすずは「結婚式や披露宴はしたくない」と言ってきた。
願ったり叶ったりだった。不細工女との結婚式なんて、こっちもやりたくない。友人にも見せたくない。ブスと並んでスポットライトを浴びるなんて恥かしすぎる。
――よしよし、自分のことをよく分かっているじゃんか。
そうやって福田みすずとの結婚に自分を納得させようとしていた。
縁談が上手くまとまりそうだと嬉しそうにしている母と妹を見て、今更、嫌だとは言えなかった。
福田みすず側が断ってこない限り、この話を進めることにした。
結婚後、どうしても女が欲しくなったら、こっそりと外でほかの女と遊べばいい。
夫婦生活も、灯りを消し、福田みすずの顔さえ見えなければ何とかできるだろうし、早々にセックスレスに持ち込めば済む話だ。ここ日本ではセックスレス夫婦が当たり前。分をわきまえた福田みすずも納得するだろう。
だけど母親は亡くなってしまった。苦労をかけてきた母に孝行をしようと思っていたのに。
当時、浩はしばらく呆然としながら、母の亡くなった後の諸々の手続きや事務処理をし、日々を過ごしていた。
福田みすずのことなど頭から消えていた。
母がいなくなり、好きでもない女と結婚する意味はなくなった。
もはやどうでもいい存在となった女からの連絡はうざい以外の何物でもなかった。
それに……福田みすずが不幸を呼び寄せた疫病神のようにも感じていた。
初顔合わせした時も、郷田家を訪れた時も、あの女は葬式に臨むかのように黒づくめの服を着ていた。表情も暗く、一重まぶたの小さい目は何を考えているのか分からない不気味さがあり、今思えば死神を想起させる。
福田みすずは女として残念というだけではなく、母へ死を運んできた厄そのものにしか思えなかった。
――この縁談はご破算にしよう。
もう、福田みすずには生理的嫌悪感しか持てなかった。結婚なんてとんでもない。
福田みすずの顔を見るのも嫌だったが、それでも浩としては今までのこともあるし、別れ話を臭わせて終わりにするつもりだった。
会わずにメールで済ませたかったものの、福田みすずとは彼女の伯母の紹介で見合いをしているので、あまり失礼なことはできない。
福田みすずの伯母は母の友人でもある。母の名誉もある。母の友人には悪く思われたくはなかった。
なのに福田みすずはこっちが傷つくようなことをしつこく言い立て、見下すような態度をとった。
結局、こちらは言い負かされた形になったまま、福田みすずは言いたいことだけ言って去っていった。
そのことが未だに悔しくてならない。あれほど生意気なブスに出会ったのは初めてだった。
今まで浩が見てきたブスはたいてい端っこで目立たないようにひっそりしていた。
そうそう、ブスは遠慮し控えめでいるものだ。分をわきまえない積極的なブスは目障りでしかない。
だからそういう調子に乗ったブスには、その女が気にしているだろう顔の特徴を何かの動物や不細工な有名人に例え、周囲を巻き込んで笑いものにしてやるのだ。すると大抵のブスは顔を引きつらせながらも場の空気に同調して笑い、その後はおとなしくなる。
浩は心の中で鼻を鳴らす。
――それでいい。ブスは引っ込んでいろ。
生意気な美人は許せるが、生意気なブスは許せない。それが世の本音だ。
悪いことをしているとは思わない。
周囲も浩に同調してブスを哂う。
たまに、そういった行為を善人ぶってたしなめる者もいるが、冗談をシリアスな場にして、かえってブスを惨めにさせる。哂う者よりたしなめる者のほうがブスを傷つけるのだ。
それに善人ぶるヤツだって、内心ではブスよりも美人がいいはず。美人を選ぶに決まっている。
――オレは正直なだけだ。本音を隠して善人ぶるヤツこそ罪だ。
「それにつけても……この漫画はえぐいな」
浩は漫画の中の『ブス女が殺されるシーン』を見やる。
――顔を破壊させる残虐な殺し方……このサワという漫画家は何を思いながらこのシーンを描いたのだろうか。
こいつ、ちょっと病んでいそう……。メンヘラってヤツ? 性格も歪んでいてコミュ障、友だちも少なくて当然非モテ、学生時代も冴えなかったんだろう――。
と、その時、突然ひらめいた。
「まさか……沢田……?」
ペンネームだろう『サワ』という名前はもちろんのこと、この漫画に出てくる『郷浩志』の手下の『田澤』は――『沢田』をもじっている? そういえば、容姿や雰囲気があの沢田にそっくりだ。
浩は9月にあった同窓会を思い出す。
――いや、あの時、沢田は無職だと言っていたはず……就職に失敗したと……。
が、さらに浩の脳裏に高校時代の記憶が甦る。
沢田はノートに漫画を描いていた。それをちょっとからかったことがある。いかにもオタクが好みそうな少女の絵だった。
けど、どんなタッチだったか、よく覚えていない。
このコミック誌の漫画の絵と似ているようにも違うようにも思える。……いや、素人の自分には分からない。
――この漫画は沢田が描いたのか? あいつは漫画家になったのか?
確かめたかったが沢田の連絡先は知らない。この先、つきあいたいような相手ではなかったし、はっきり言ってどうでもいい人間だった。同窓会の時に会ったきり、すっかり忘れていた存在だ。
が、今となっては悔やまれる。なぜ連絡先を訊いておかなかったんだろう……。
いつの間にか浩は頭を掻きむしっていた。
高校時代の名簿なんてどこかに行ってしまった。
でも同窓会の通知が沢田に届いたということは、幹事なら沢田の連絡先を知っているだろうか。
(しかし沢田文雄は引っ越しており、古い住所の家には住んでおらず、連絡のとりようがないことを後に知るのだった)
――もし、沢田がこれを描いたのだとしたら……あの沢田がこのオレをコケにしたってことか? オタクで冴えない最下層だった沢田が。
バンッ。気がつけば、買ったばかりのコミック誌を壁に投げつけていた。
その時、玄関のドアの外で気配がした。
妹の薫が帰ってきたようだ。
浩はすぐにコミック誌を拾い、カバンに仕舞う。
薫にこの漫画は見せられない。
幸いにも薫は漫画には全く興味はなく、コンビニなどでこの手の青年コミック誌など手に取ることはないだろう。
来年、喪が明けたら薫は結婚する。薫には心配をかけられない。
当初、薫はみすずのことを気に入っていて、浩が破談にすることに難色を示したが、浩が「オレも、お前みたいに恋愛結婚したい」と言ったら黙り込み、最終的には浩の気持ちを尊重してくれた。
――そうだ、あんな気持ち悪い女、忘れるに限る。
それなのに……あの漫画のせいか、浩の脳裏に福田みすずの姿がくっきり甦る。
これから夕飯だというのに食欲がなくなってしまった。
「ただいま」
ドアの開く音と共に薫の声が響いた。
浩は気持ちを鎮める。
母に代わって、妹の新しい旅立ちを見守らなければならない。
妹が出て行った後はこの部屋も引き払い、もっと家賃の安いコンパクトな部屋に引っ越す予定だ。
――オレも合コンにでも行って、彼女見つけないとなあ……。もうすぐクリスマスだし。
実は母親が健常でいる頃、浩には結婚を約束した彼女がいた。
だが、浩の母親が半身不随になったことを知ると逃げてしまった。
愛し合っていたはずなのに……。
騙された気分だった。
その女にはいろいろ尽くした。デート代、食事代はもちろんこちらが負担をし、高価なプレゼントも贈った。愛のなせる業だ。
なのに彼女は、苦境に立たされた浩を簡単に捨てた。
――ならば、こちらも女を利用してやろう。
浩もどこか投げやりな気分になり、母の勧めた縁談を受けてしまった。
それが間違いだった。
あの時はどうかしていた。失恋の痛みと裏切られた思いが浩の判断を誤らせた。
母と妹のために犠牲になろうとすることで自分に酔い、受けた傷を癒そうとしたのかもしれない。
でも、やっぱり本当に好きになった相手と恋愛で結婚するのが王道だ。
母が亡くなり妹も独立することで、この頃、何とも言えない寂しさを感じるようになっていた。
思えば職場の同僚たちのほとんどが家庭持ちで、浩と同世代の独身者はいない。
結婚はやっぱりしたい。いい女をモノにして、できれば子どもだって欲しい。
が、だからといってブスとの結婚はゴメンだ。浩のプライドが許さない。もう浩自身の所為ではない『親の介護付きという悪条件』はなくなってしまったのだ。
ブスとの結婚は、純粋に男としてのランクが低い、と周囲に見られてしまう。
今まで自分は、誰もが認める美人とつきあったことしかない。遊びだとしてもブスは論外だった。
女はやはり容姿だ。結婚相手としても、その価値は絶対だ。
その上で家庭的かどうか、人間性・性格の良さが求められる。
夫婦共働きを求める世間では『公務員』は好条件らしいが……そんなことで妥協し女の容姿に目をつぶるのだとしたら、男として情けない。
それにもう……自分は福田みすずみたいな不細工女は生理的に受け付けられない。
分をわきまえようが、福田みすずのようなブスは論外・圏外だ。ブスとは今後一切関わりたくない。
と、その時また……思い出したくもない福田みすずの顔が浮かんだ。
それは沢田が描いたのだろう漫画の中の顔をつぶされた女の姿とリンクする。
浩はその気味の悪い顔を剥がそうと頭を振った。
が、それはしつこく貼り付いたままだった。逃げたくても逃げられない。
まるで福田みすずにつきまとわれているような感覚に陥る。
元凶は……沢田が描いたと思われるあの漫画のせいだ。
浩は、漫画を仕舞ったカバンを睨みつける。
沢田文雄の漫画は、浩の心の瘡蓋を剥がし、再び膿ませた。
「兄貴、いるんでしょ?」
居間のドアを開けた薫の声と共に冷たい空気が入り込む。
暖まり始めた室内で未だ外套を着たままの浩に何とも言えない悪寒が走った。
――今夜は悪夢を見るかもしれない。
浩の頭の中には血まみれとなった福田みすずの顔が呪いのように居座っていた。