差別、偏見から解放されるのは難しい、というお話。世間一般から見たらごく普通な小林家。差別や偏見に満ちている小林和彦だけど、本音では共感する人、多いのでは。
以下、本文。
11月中旬の休日。空の色が落ち、刻一刻と闇に沈んでいく夕方。
小林家の居間には、和江の弟・和彦が顔を見せており、和江と母の敏子と座卓を囲んでいた。
予め、母の敏子から「和彦が何か相談したいことがあるようで家に来る」と聞いていた和江は同席させてもらうことにし、実家を訪れていた。
姉の和江もいることを知った和彦は一瞬、苦々しそうに顔を歪ませたが、すでに席に着いていた和江を追い出すわけにもいかず、同席を渋々了承した。
ちなみに文雄のほうは12月発売のコミック誌に載せる原稿の下書きに入っていて、二階の部屋で仕事をしている。明日からアシスタントも入り、仕上げにかかるという。
「真理子さんと恵美子ちゃんは元気?」
母・敏子はお茶を淹れながら、硬い表情の和彦へ声をかけた。
「うん……というか、恵美子の受験が失敗して……真理子は相当落ち込んでいて……で、今日も挨拶に来れなかったんだけど……」
ボソボソと応える和彦を横目に、和江は今まで母から聞いた話を反芻する。
――和彦と真理子の娘・恵美子はお受験に失敗した。ノロウィルスに感染して受験日に寝込む羽目になり、第一希望の学校は受験することができなかったという。
その後、恵美子の体調が戻らず、風邪にかかり、悪化させてしまった。滑り止めの学校は無理して受験したものの、途中で具合が悪くなって棄権し、そこも落ちたようだ。
でも……落ちた直後はショックだっただろうが、いつまでも引きずるほどのことだろうか。
公立小学校に行けば済むだけの話だ。それに、恵美子は音楽の道へ進むと聞いている。最終的に音大を目指すのならば、学科の勉強はさほど重視しなくていい。経済的にも厳しかったのだから、かえって良かったのでは。
そんなことを思いながら、和江はお茶をすする。
「それで頼みがあるんだけど……僕たちをこの家に住まわせてくれないかな?」
湯呑を手で弄びながら、和彦はためらいがちに話を進めていた。
「どうして? 今、住んでいるマンションどうするの? ローンもかなり残っているでしょ」
母・敏子は眉をひそめる。
「そこは貸して、その家賃収入をローン返済に回すつもりだ」
「話が見えないわ。何でそこまでしてこの家に?」
「恵美子のためなんだ……うちのほうの公立は何というか……あまり良くなくて……だから、こっちの学区の小学校に通わせたいんだ」
「うちの学区が特別にレベル高いとは思えないけど。それにうちには文雄君がいるのよ。作画作業に入る時はアシスタントさんが泊まりがけで来るし……余っている部屋はないんだけど」
「……だから、その……文雄君っていつまでここにいるのかな?」
そこで和江はたまらず口を挟んだ。
「ちょっと、それって文雄君に出ていってほしいってこと? そもそも今まで、ほとんどうちに顔を出さなかった真理子さんが、母さんと同居する覚悟あるとは思えないんだけど。ここで暮らすことについて真理子さんはどう思っているの?」
「……ああ、もちろん真理子も同居を希望している」
和彦は和江に視線を合わせず、母親のほうへ顔を向けたまま応える。和江に口出ししてもらいたくないと言いたげだ。
が、和江は頓着せず、言葉を重ねる。
「それでもね、今さらそんな話を持ち出して、文雄君を犠牲にしようというのはおかしいんじゃない?」
「犠牲だなんて大げさな……親戚のよしみで、うちがいろいろ融通利かせて部屋を提供しているんだろ」
口調に苛立ちを含め、和彦はやっと和江に目を向けた。
その時「あの」と遠慮気な声が入ってきた。
「僕のことで何か?……すみません、立ち聞きするつもりはなかったんですが、トイレに立ったら聞こえちゃって」
文雄が居間のドアから顔を出していた。
和彦はハッとしたように口をつぐんだが、和江は文雄を手招きし、そのまま掌をひっくり返し、空いている席を指し示した。
「文雄君も関係する話みたいだから聞いたほうが良さそうよ。こっちにどうぞ」
「あ……はい、お邪魔します」
文雄は頭を垂れながら部屋に入ってくると、その席に腰を下ろした。
「姉さん……」
困惑の色を滲ませている和彦を尻目に、和江は超然と言い放つ。
「あなたたちがこの家に住みたいって言うなら、文雄君も無関係ではいられないでしょ。文雄君にも話を聞く権利はあるんじゃないの?」
「確かにそうね」
母・敏子も同意するので、和彦は仕方なくそのまま話を続けた。
「……もちろん、どこか部屋を借りることも考えて手頃な物件を探してみてはいるんだけど、なかなかいいところなくて……で、この家で暮らせるなら経済的にかなり助かるかなと……」
「あら、私立に行かない分、経済的に余裕ができるでしょ?」
ちょっと意地悪いニュアンスを込めて問う和江に、和彦はため息混じりにこう答えた。
「想像以上にピアノのほうにお金がかかりそうなんだ。レッスン代はもちろん、この前、教授のレッスンを受けた時、グランドピアノを買うように言われたし、グランドピアノにもいろいろグレードがあって……やっぱりいいものを恵美子に与えてやりたいし……。それに防音がきちんとされていて、グランドが置けるような広い部屋を見つけるのが難しいんだよ。ここの家なら持家だから防音工事も自由にできるし……」
「じゃあ、初めから私立に行くなんて経済的に無理だったってことじゃない? あなたたち、ちょっと無計画過ぎない?」
和江は心底、呆れた。
が、和彦も負けじと揶揄で返す。
「真理子の実家にも援助してもらっているし、今のマンションを越さずに済めば、私立行かせてもギリギリやっていける計算だったんだ。無理してでも子どもにいい教育、いい環境を与えてやりたいのが親心だろ? 子どもがいなくて気ままな生活している姉さんには分からないかもしれないけどね」
「随分な言い草ね。子どもを盾にすれば我がままが通ると思っているのかしら」
姉弟の喧嘩腰の言い合いが続き、ここで母・敏子が割って入った。
「やめなさい。文雄君がいるのよ、みっともない」
「あ、いえ、僕のことは気にしないでください……。それに僕も独身だし自由業ですから……お勤めしている和江さん以上に気ままな暮らしをしているように見えてしまいますよね……」
文雄は猫背のまま視線を下に向け、首をすくめていた。
ややもすれば皮肉にも受け取れる文雄の言葉を聞いた和彦は声のトーンを落とす。
「……真理子の実家はお義兄さん家族が同居しているし、僕の通勤にも困るし、恵美子のピアノのレッスンに通えるような距離にないし……だから僕たちにはもう……ここを頼るしかないんだ……」
「ん? 恵美子ちゃんの学校、ここの学区にこだわっているわけじゃないんだ? あなたたちの住んでいるところの学校がイヤということなの?」
どうも和彦の話は要領を得ない。再び和江が問う。
「……ああ」
一瞬の間を空けて和彦は頷いた。
「ローン返済が済んでいない今住んでいるマンションを引越してでも、というのは尋常じゃないように思うけど?」
「だからさっきも言っただろ。うちのほうはレベルが低いから」
「レベルが低いという根拠は何?」
和江の質問に、言葉に詰まりながらも和彦は答えた。
「……うちの学区内に……児童養護施設があるんだ」
「え」
児童養護施設と聞いて、和江の頭のにあの四条カップルのことが浮かんだ。
同時に、文雄もハッとしたようにすくめていた首を伸ばし、顔を上げる。
「……つまり問題児が集まる学校なんだ」
ここまで来たらキレイごとを言っても仕方ないとばかりに、ついに和彦は本音を漏らした。
弟のあからさまな表現に和江は言葉を飲み込むように口を閉じ、文雄もメガネの位置を直しながら今までどことなく向けていた視線を和彦に合わせた。
そんな二人を尻目に、和彦は開き直ったかのように言葉を続けた。
「ちょっと前に、施設の子が関わった凄惨なイジメ事件があったらしいし、学校の雰囲気が良くないと聞いている」
「ウワサでしょ?」
「ほぼ事実だ。その小学校へ通う同じマンションの人がそういう話をしていたのを聞いて、真理子もいろいろ調べたんだ。もちろん施設の子の境遇は気の毒だとは思うよ。でも、恵美子が被害に遭うのを見過ごすわけにはいかないだろ」
「恵美子ちゃんが被害に遭うって決まったわけじゃないし、施設の子の数なんて全校生徒からしたら、ごく僅かでしょ? 普通の子同士のイジメのほうが多いんじゃない?」
「問題児がいると学校の雰囲気も悪くなって、普通の子も感化されていく。それが現実だ。真理子もそのことを心配しているんだよ」
「差別的な考え方をするのね」
呆気にとられたように和江はため息をつく。
「ああ、子どもがいない姉さんは善人ぶって無責任な理想論を唱えられるだろうけどね。こっちは何が何でも子どもを護りたいんだ」
和彦は和江を見据えた。その眼には敵意がはっきりと込められていた。和江が恵美子の敵であると言わんばかりに。
が、和江も黙っていない。
「あのね、うちの職場にも高卒で養護施設出身の職員がいるけど、真面目だし優秀よ。……そうそう、お彼岸の時、私が若いカップルと挨拶したの憶えている? あの二人がそうなんだけど」
和江にそう言われて、和彦は記憶を手繰り寄せるように視線を上に向ける。
「ああ、あの……かなり若そうだったけど……もう子どもがいたよな……」
赤ん坊と一緒だった若夫婦を思い出したようだが、冷笑し、こう続けた。
「あの若さでちゃんと育てられるのかな。今、流行りのデキ婚だろ? だらしないとも言えるよな。ま、施設出身と聞いて納得したよ」
「いいえ、デキ婚ではない。彼らは同い年でハタチで結婚したけど、子どもを産んだのは22よ」
和江は憮然として言い返す。
「ええ? ハタチで結婚? ヤンキーみたいだな。それこそ自分の子どもを虐待して、施設送りにするんじゃないのか?」
四条カップルをさらに貶める和彦に、和江は猛烈に腹が立った。気がついたら弟に痛烈な批判をぶちかましていた。
「あのね、彼らには助けてくれる親もいないの。つまり、あなたたちみたいに親を当てにせず、自分たちだけで子育てしているわけよ。そんな彼らをバカにする資格はあんたにはないんじゃない? 偏見もそこまでいくと立派ね。そんな親の下で育つ恵美子ちゃんが心配。差別を平気でする人間に育ちそう」
「結婚もせず子育てもせず、好き勝手に生きている姉さんにどう思われようが痛くも痒くもないね。姉さんもさ、そういった義務を果たしてから大きなこと言いなよ」
「それも前時代的な差別発言ね。品性、疑う。子どもがいるとそんな偏狭な考えになってしまうものなのかしら?」
お互い悪意を持って、相手を凹ませるために、あえて容赦のない言葉の刃を浴びせ合う。
血縁の中だからこそ遠慮なく相手を叩ける。
けれどそこに気遣いというものはない。礼を欠き、友人知人以下の扱いとなる。
「これ、やめなさい。文雄君もいるんだからね」
再度、母・敏子が割って入る。
それを受けてか、当の文雄はこう口を挟んできた。
「いえ……僕も結婚せず子どもも作らず、義務を果たさない未熟者で申し訳なく思ってます。おまけにアシスタントに児童養護施設出身の者がいます。彼女は真面目で実力があり、僕は助かってますが、和彦さんから見れば問題人物に映るんでしょうかね」
なぜか、この時の文雄はオドオドしたところはなく、淀みなくスラスラと言葉を紡いていた。そしてその内容は皮肉以外、何物でもなかった。
和彦は何も言い返せず、ただ顔をしかめるだけだった。
そこへ和江が興味津々という感じで文雄に目を向ける。
「あら、文雄君のほうもそんな縁があったの」
「ええ、何か不思議ですね。養護施設出身者なんて、そう多いはずないのに」
文雄はそう応えると立ち上がり「じゃあ、仕事がありますんで……そろそろ失礼します。僕は叔母さんの判断に従います」と頭を下げながら居間から出て行った。
一人抜けると急に圧力が下がったかのようにギスギスと尖がっていた空気が沈んだ。
「……さてと、私も帰るわね。ここは母さんの家だから、最終判断は母さんがすればいいと思う」
和江もテーブルを離れ、帰り支度を始める。これ以上、ここに居ても仕方ない。
母・敏子は思い悩むように座卓に肘をつき、黙り込んでいた。
和彦は相変わらず憮然とした表情で固まったままだ。
気ままなマイノリティでいるほうが傲慢にならずに済むのかもしれない――居間から出る時、和江は何となしに思った。
昔の弟はもう少しおおらかだった。簡単に人を見下したり敵視するような人間ではなかった。
それとも、子どものためにと一生懸命になっている弟のことを悪く捉えてしまう自分のほうが傲慢なのか?
母も和彦も何の反応もしなかった。
静けさがよりいっそう空気を重くする。
和江は振り返りもせず部屋を出て、誰の見送りもない中、小林家をあとにした。
外はすっかり冷えて込んでいたものの、歩を進める和江の頬が微かにゆるむ。
――人間関係って奇妙なものね。
弟に四条夫妻のことを侮辱されて、なぜか猛烈に腹が立った。そして彼らを擁護したくなった。彼らとはそんなに親しいわけでもなく、むしろ距離を置いている関係なのに。おかげで弟とはすっかり険悪になり、母を困らせたというのに。
そこへ一陣の風が吹き、落ち葉を転がしていった。
人の気持ちは変化していく。それに伴って縁の形も変わっていくのかもしれない。
冷えた空気が心の中の淀みを一掃する。
和江は家路を急いだ。そう、実家はもう和江の自宅ではない。
もしも弟夫婦がここに越して来たら、実家との縁はさらに遠くなるだろう……。
一抹の寂しさを感じつつも、和江は前を向いたまま、自分が帰る場所へと足を速めた。
・・・
去っていく和江の影を、文雄は二階の仕事部屋の窓から見送りながら、今、不思議な気持ちに包まれていた。
友だちも多そうで人づきあいも難なくこなし、おしゃれで美人で恋愛経験もたくさんありそうで、公務員という恵まれた安定的な職業に就き、経済的に余裕のある暮らしをしている……そんな別人種の和江とどこか通じ合う部分があった。
一方、健全にまっとうな人生を歩んでいる眩しい存在だった和彦の攻撃的でギスギスとした余裕のなさを見て、気の毒に感じた。
いや、世間の外れ者の自分がそんなことを思うなんて、おこごましいことだけど。
普通に生きるということは、実は普通の人にとっても大変なことなのかもしれない。
――ずっと彼らに対し劣等感を持っていたけど……今は何も感じない。
彼らは自分とは遠い世界の人たちだ。けれど彼らは彼ら。自分は自分。そこにランクの上下、序列を意識することはもうなかった。
その時、文雄は何かから解放された気がした。
「新しい部屋、探さないとなあ」
たぶんもう、ここにはいられなくなるだろう。
窓から伺えた和江の影はとうに消え、誰もいない路地を外灯がぼんやり照らしていた。