これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

それぞれの道②小林和江―差別と縁を切るのは難しい

短編連作物語「これ縁」小林和江編最終話。以下本文。

 師走。
 葉を落とした木々の枝が寒々しいものの、クリスマスシーズンとなり、繁華街は華やかに飾り立てられ、賑わいを見せる季節となった。

 小林和江は休日のショッピングを楽しんだ後、差し入れを持って実家へ立ち寄った。
 とりあえずピンポンを鳴らすが、未だ持っている実家の鍵をまわし、家に上がる。

「ちょうどお菓子のクリスマスセールやっていてね、クッキー買っちゃったのよ。一人じゃ食べ切れないから」
 台所にいる母に声をかけ、食卓に包装されたクッキーの缶を置き、茶箪笥から急須と湯呑を出し、お茶の用意をする。

「ほらほら、味見してみて。ナッツ入りで美味しいんだから」
「へえ、どれどれ」

 洗いものを終えた母・敏子も席に着く。
 和江は包装を解き、缶を開け、そのままクッキーをつまんだ。

「当たりね。ちょっとしたお土産やプレゼントにいいかも」
 サクサクとしたクッキーの食感とナッツの香ばしさがたまらない。

 暫し、クッキーをお供に何気ない世間話を転がしながら、和江は母とおやつタイムを楽しむ。
 が、会話が途切れた瞬間を狙うように、母は急に神妙な面持ちとなり、クッキーを頬張っている和江にこう話を切り出した。

「あのね……和彦のことなんだけど」
「ん?」

「3月にここに越してくることになって」
「……じゃあ、文雄君は?」

「2月に出て行ってもらうことに……文雄君にはもう了解をとってあるわ」
「そう……」

「それにね……恵美子ちゃんのためだもの。私にとってもたった一人の孫だからね。できるだけ助けたいのよ。あなたにもそのこと分かってほしいと思ってね……」

「それが母さんの考えなら仕方ないけど、私は和彦たちの考え方にはちょっとついていけない。養護施設の子どもと一緒の学校が嫌だから引っ越すなんて……」

「……そうかしら」
「え?」
「和彦たちの気持ち、分からないでもないわ。やっぱりいい環境で子どもを学ばせたいもの」

 母の言葉を聞き、和江は一瞬、言葉を失った。脳裏に四条カップルの姿が浮かぶ。

「……施設の子どもは問題児だっていうわけ?」
「全員がそうだとは思わないけど……一部にはそういう子がいるのは確かでしょ?」
「なら、普通の子たちの一部にも問題児はいるでしょ」

 母は一旦は口をつぐむも、ため息と共にこんな言葉を漏らした。
「……和江は守るべき子どもがいないから正論が吐けるのよ」

 和彦と同じことを言う母に、和江は愕然とした。

 相手の主張に理があると分かっていても、自分の考えを正当化したい。
 そのために相手の生き方や人格を揶揄し、相手を否定する。
 あるいは自分と違う生き方をしている人には分かるわけがない、と最初から拒否する。

 そして……母は心の底では、和江を、和江の生き方を認めていない。
 母の一番の理解者と思い込んでいた自分。母も自分のことを理解してくれていると思っていた。でもそれは大いなる勘違いだったのか。いや、勘違いというよりも傲慢だったというほうが正しいか。

 やるせなさを感じつつも、和江は母を質す。
「じゃあ、守るべき子どもがいれば差別や偏見は許されるってこと?」

「そんなこと……」
 母は語尾をあやふやにして結局、口を閉じた。

 ――今、必死で自分を正当化する言葉を探しているのね。
 和江は黙ったまま母を見つめた。

 その沈黙を破るように、母は嘆息をひとつ吐くと、こう続けた。
「私たちは聖人じゃないのよ。施設の子は怖い。そう思うのは自由でしょ。その子たちから離れる自由もあるはず。
 そう、こちらが出ていくんだから……施設の子を犠牲にしているわけじゃないのだから、責められる謂れはないでしょ。施設の子が弱者なら、恵美子だってか弱い女の子なの。大人のいないところで乱暴されたら誰も助けてくれないのよ」

 和江はその母の言葉を乾いた気持ちで受け取る。
 ――そうくるか。でも母さんらしくない理屈ね。
 きっと和彦との話の中で得た言葉を借りているのだろう。

 育ちや生き方が自分とかい離している人間と分かり合うのは難しい。近しいと思っていた母とでさえ理解し合えないのだ。

 和江は改めて、弟・和彦が四条カップルに対して放った偏見に満ちた言葉を思い出し、四条カップルが周囲に対し、過剰に距離を置いている理由が分かった気がした。
 育ちや生き方が『普通の人たち』と違う彼らが、容易に心を開くことはない。それは至極当然のことだった。

 そして、あの真理子が……姑との同居を選んででも、自分の娘を施設の子たちと一緒に学ばせたくなかった……そこまでして施設の子を自分の娘から遠ざけたかったのだ。そのことに和江は薄ら寒さを覚えた。

 けれど、自分がそう感じるのは、四条カップルのことを知っているからだろう。
 でなければ、ここまで母や弟夫婦の考えに嫌悪感を抱かなかったかもしれない。
 いや、それどころか母や弟夫婦の考えに同調していたかもしれない。

 和江は母を見やり、皮肉を混ぜて応えた。
「そうね、文雄君を追い出すのも、こちらの自由だしね」

 が、母は悪びれずに言い返してきた。
「息子や孫を優先するのは当然じゃないかしら。それに文雄君も了解してくれたし、この件について、あなたに口出しする権利はないのよ」

「もちろんその通り。私は感想を言っただけ。感想を言うのは自由よね? そもそもこの話、母さんから振ってきたでしょ? 私に話しておきたいって」
 和江は片眉を上げる。

 言い負かされる雰囲気を感じたのだろう、母は和江から視線を逸らし、話題を変えた。
「……あ、そうそう文雄君にもお茶とクッキー、持っていってあげないと」

 そう言って、文雄の分のお茶を用意する母の顔は強張っていた。和江に対する微かな敵対心がそうさせるのだろう。コポコポとポットから急須に入れる湯の音が間を持たせてくれ、つかの間、休戦状態となる。

 が、その立ち上る湯気を見やりながら、和江はふと思ったことを口にする。
「ねえ、本当は文雄君を追い出したかった、というのもあるんじゃない? 泊りがけで来るアシスタントに施設出身の子がいるから。そんな子を家に上げてほしくないんでしょ? だって施設の子は怖いんですものね」

 母はお茶を淹れている手を止めた。
 急須を置く母の瞳の奥が揺れている。図星だと和江は思った。

 しばしの沈黙の後、今まで逃げるようにして視線を下に落としていた母は顔を上げ、和江を射るかのような瞳を向けた。

「え……ええ、そう。私は勘違いしていたの。文雄君はいちおう大学出だし、編集者の方も一流大学出の人で、身元がしっかりしている人がうちに出入りしていると思っていたの。アシスタントの人たちも出版社の紹介で来るというから、ちゃんとした人たちだと……。
 でもアシスタントは出版社が保証人になっているわけじゃないんですって。文雄君個人が雇っていて……その上、履歴書も書かせていないって……。保証人もいないのよ。
 それを聞いてびっくりしたわ。絵さえ描ければそれでいいだなんて。
 世間の常識とかけ離れすぎている……。文雄君を含めて、そんな人たちと一緒に暮らすことはできないと思ったの。
 それにね、その施設の子は高校中退なんですって。何か、やらかしたからかもしれないわ。親も行方不明だそうで、あまりに育ちが……。その子と会ったことあるけど、今思えば……無表情でちょっと気味が悪い子で……」

 母の口から次から次へと他者に対するネガティブな言葉があふれ出てくる。
 今まで知らなかった母の一面を見た気がした。

 和江はそのアシスタントのことはよく知らなかったが、そこは文雄が責任を持ってやっているのだろうと思っていた。けれど母は文雄をも信用できないようだった。

 普通であるかどうか……。
 何を持って『普通』とするかは置いておいて――母から見たら、文雄もそのアシスタントも『普通ではない』ということなのだろう。それはもう理屈では説明できない感覚的なものなのかもしれない。

「この家で何かあれば、真っ先にその子を疑ってしまうと思うの。そういうのは嫌だから……出て行ってもらうことにしたの……」
 最後のほうは力なく、母の声は消えていった。

 再び、部屋に沈黙が降りる。
 和江はそんな母をじっと見つめていた。

 ――そのアシスタントが出入りして数か月経つけど、今まで問題なかったんでしょ? そのアシスタントが施設出身で、おまけに親が行方不明という普通ではないあまりに不幸な身の上で、高校中退だと知ったから、その子のことが急に気味悪くなったんじゃないの?

 そう質そうとしたが思い留まる。
 母なりに罪悪感を持っている。自分の考えが偏見に満ちた差別だと分かっている。
 それを正論で追い詰めたところで、母を硬化させるだけだ。

 母とは違う生き方をしている和江の言葉は、母の心には届かない。
『和江には分からないのよ』――おそらくその一言で終わりだ。

 母や弟夫婦からすれば、和江の考えはきれいごとにしか思えないだろう。
 正論では、人の気持ちは動かせない。

 和江は悟った。
 母の心は今、弟夫婦と孫の恵美子ちゃんに向けられている。

 母にとって、以前はあまり実家に顔を出さず距離を置いていた弟夫婦が頼ってきたことが嬉しかったのかもしれない。
 弟家族と同居することで孫の顔を毎日見られる。母には大きな喜びに違いない。

 和江はこれ以上、意見するのはやめにした。
 もう決まったことだ。自分が出る幕ではない。

 弟夫婦と上手くやっていけるのか――母も覚悟を持って決めたことだろう。母の選んだ道だ。それを尊重しよう。
 この件についてはシャッターを下ろすことにする。

「文雄君にお茶とクッキーを届けてくる」
 和江はお茶とクッキーを載せたお盆を持ち、母に背を向けた。

 部屋を出ると廊下は思いのほか寒かった。
 忍び寄る冷気に身震いしながら、さっさと二階へ上り、文雄の部屋の前で立ち止まる。

「お茶を持ってきたんだけど、開けていいかしら?」
 そう呼びかけると、中から「あ、どうぞ」とくぐもったような文雄の返事が聞こえた。

 ドアを開けると、部屋の中は書籍や資料が散乱していた。
 お盆をどこに置けばいいのかと見回していると、椅子から立ち上がった文雄が「すみません、散らかっていて」と物置き場と化しているローテーブルの上を片してくれたので、そこにお盆を置く。

「ここ、出ていくことになったんだって?」
 さっきの母との会話ですでに分かっていることを訊く。

「はい……今、新しい部屋を探しているところです。2月までは居ていいことになっているので。でも……できるだけ早く出ていきますね」
 文雄は和江を見やり、モソモソと答えた。

「私が言うのはヘンだけど何かゴメンね」
 和江は心持ち頭を下げる。

「いえ……和江さんが謝ることじゃないし、今までこの家に置いてもらって助かりました。……漫画の仕事も何とか軌道に乗って、そろそろほかの部屋へ引っ越そうかと思ってましたし。それに……今度、単行本になることが決まりまして……だから心配無用です」

 相変わらず文雄の声は覇気がなかったが顔の表情は明るく、和江はホッとした。単行本になることがよほど嬉しいのだろう。
「おめでとう。周りにも宣伝しなくちゃね」

「ありがとうございます」
 文雄は律儀に頭を下げる。

「それじゃ、仕事の邪魔をしては悪いから。あ、新しい部屋が決まったら連絡ちょうだいね」
 和江も軽く手を上げ、文雄の部屋をあとにした。

 ――私も、この家に来られるのは2月までね。

 3月には弟家族が越してくる。そのあとはもう、こうして気軽に立ち寄れなくなるだろう。自分は招かれざる客という立場になる。
 母のことは弟と真理子さんに任せればいい。自分の役割は済んだ。

 それに……と和江はこんなことを思う。
 ――もしかしたら母さんは、真理子さんとのほうが価値観や考え方が合うかも……。

 子育てをしたことがあるかないか――これは女性にとって大きな違いなのかもしれない。
 母も真理子も子を産み育てることこそが真っ当な生き方だと思っている。

 そう、育児は責任が重く大変な仕事だ。
 だからこそ和江は外で働く仕事との両立はできないと考え、外で働くほうを選択した。

 ――児童養護施設の子どもたちを恵美子から遠ざけたい弟夫婦と母。
 ――児童養護施設出身の、親が行方不明という普通ではない身の上の、高校中退者を家に上げたくない母。

 けれど、それを批判する資格は自分にはないことを和江は思い知った。
 何が正しいか正しくないかの線引きなどできない。

 誰もが、心の中に『差別』を飼っている。
 差別は、己を護る壁であり殻だ。

 和江だって嫌いな人間、苦手な人間を遠ざけたいし、ある種の人間を手っ取り早くカテゴライズして偏見の目で判断することもある。差別することもあれば、されることもある、差別はついて回る。

 差別と偏見は決してなくならない。人間は差別を縁を切ることはできない。どこかで折り合いをつけるしかない。それが人間社会で生きていくということなのかもしれない。

 母や真理子にとっては、自分の孫や子どもを守ることが正義だ。
 守るべき子にほんの少しでも害悪となる可能性があるものは排除していきたい。それが彼らにとって優先されるべき正しい行いなのだ。

 和江はその考えに共感できないものの――娘のために姑との同居を選んだ真理子のことを見直してもいた。今まで訪ねることを避けていた夫の実家で、これから暮らそうというのだ。

 我が子のために尽くそうとする真理子と、家族のためだけに生きてきた敬愛する母の姿が重なる。
 と同時に、彼女たちと自分との間に、通じ合うことのない分厚い壁を感じた。

 自分は手も口も出さず、距離を置くことにしよう。
 それがお互いのためだ。

 階段を下りた和江は帰り支度をする。
 台所で後片付けをしている母に「じゃあ、また」と声をかけ、小林家を出た。

 外は相変わらずの寒さだ。ひんやりとした夜空は星をいっそう煌めかせていた。
 和江は振り返り、暫し、外灯にぼんやりと照らされた実家を眺める。

 いや……ここはもう実家でなくなる。自由に立ち入れない家になるのだ。「じゃあ、また」という言葉は使えなくなるだろう。彼らとの縁は薄まることを予感する。
 と同時に新しい縁がどこかで生まれるのかもしれない、紡がれていくのかもしれない。だって四条夫妻に対する見方がこんなに変わったのだから。今では弟夫妻よりも四条夫妻のほうが近しいとさえ感じる。

 踵を返すと、和江はもう二度と振り返らなかった。これからも自分の道を行くしかない。
 和江の背中は夜の静かな住宅街を抜け、人通りで賑わう明るい繁華街へと向かった。