短編連作物語「これ縁」、小林和江の弟・小林和彦視点からのお話。事情が違う他人の価値観ってなかなか共有できないものだよね。以下本文。
冷たい風が吹き荒ぶ中、勤務を終えた小林和彦は帰途に就く。
今日は割と早く仕事を切り上げることができた。それでももう9時を過ぎている。
駅から徒歩5分。疲れた体を引きずりながらチョコレート色をした10階建てマンションへ入り、エントランスを抜け、エレベータを待つ。
階数表示を見つめていると、頭がぼんやりしてきた。深呼吸し、たまった疲れを追い出すかのように思いっきり息を吐く。
やっとエレベータが到着。
誰もいない箱の中。4階ボタンを押し、後ろの壁に背中を預ける。体が沈み込む感覚に陥りながらも、そのままボンヤリしていると、チンという音と共にエレベータが止まり、ドアが開いた。重くなった足を何とか動かし、降りる。外廊下を10歩ほど進めば我が家だ。
鍵を回し、401号室のドアを開けると――
「おかえりなさいっ」
娘の恵美子が出迎えてくれた。
「ただいま……まだ起きていたのか」
和彦は愛娘に頬をほころばせる。
恵美子の笑顔はどんな疲れも癒してくれる。
平日は恵美子がまだ寝ている時に出勤し、帰る毎日。休日以外、起きている時の娘になかなか会えないから、ことさらに嬉しかった。
「ご飯。できているわよ」
真理子もキッチンから顔を出した。
恵美子の受験失敗からやっと元気になってくれて、和彦はホッとしている。娘の受験失敗は、恵美子への健康管理が甘かったせいだ、母親失格だとずっと自分を責めていたが、ここを引越すことで気持ちに区切りがついたようだ。
それでも……姑になる母・敏子との同居は大きな決断を要しただろう。
巷でよく聞く嫁姑問題。
男の和彦も察することができる。嫁の立場からすれば、できれば姑と同居などしたくないはずだ。自分だって、真理子の親と暮らすのは躊躇する。
が、恵美子のためと思い、真理子もガマンすることにしたのだろう。真理子は母としても妻としてもよくやってくれている。
それに較べて……と和彦は、姉の和江のことを思う。
――姉さんはどことなくギスギスしていて、言うこともキツイし、優しさがあまり感じられない。それはやはり子を生み育てるどころか結婚さえもしてないからだろうか。
姉と同じく従弟の文雄のことも何だか気に入らなかった。
――文雄君のほうはどこか幼い。
つい最近まで、親の家に寄生し、今度は親戚を頼り、いい歳して自立もできていなかった。
好きなことを仕事にしている気楽な独身という立場がそうさせているのだろう。
こう言っては何だけど、文雄は今も学生のような雰囲気で、とても社会人に見えない。
小学生の頃、一緒に遊んだことはあるが、中学校に入ってからは疎遠になってしまった。価値観も考え方も全く合いそうにない。別の世界の人間だ。
そう、和江も文雄も家庭を築かず、人と深く関わることをせず、自分のためだけに生きている。その姿は大人としてどこか未熟な気がした。
和彦は、11月に和江と文雄を入れた話し合いを振り返る。
あの時――
児童養護施設出身だというカップルをつい悪しざまに言ってしまったが、売り言葉に買い言葉だった。
なのに彼らは、和彦をまるで差別主義者だとばかりに皮肉った。悪者に仕立てられた気分だった。
正義を振りかざす和江も文雄も、背負う家族がいないお気楽な身分。自分一人だけのことを考えればいい。だから、きれいごとも言える。
何も背負っていない彼らに、こちらを批判する資格はない。
扶養家族を抱えていない上、絶対的安定を保障されている公務員の和江も、好きなことを仕事にしている文雄も……家族にために民間企業で激しい競争にさらされ身を粉にして働いている和彦からは『のほほんとラクして生きている人間』に見えていた。
――ま、今回、うちを出る文雄君にとっては本当の意味で自立できるいい機会だろう。いい加減、甘えは捨ててほしいものだ。
そんなことを思いながら、和彦は部屋に上がり、着替え、ダイニングルームへ行く。その向こうにあるキッチンでは、夫の食事の支度をしている真理子に、恵美子がまとわりついていた。
「今日もピアノをがんばったか?」
和彦は恵美子に声をかける。
「うん」
元気よく返事しながら恵美子が和彦に駆け寄ってきた。
「そうか、偉いなあ」
娘に笑顔を向けながらも、気を引き締める。
経済的なことで家族を心配させたくない。心置きなく恵美子が夢をつかめるようにしたい。
母と同居し、いずれあの家をもらうことができれば相当助かる。
和彦は実家の古い縦型ピアノが置いてある一番広い居間を思い浮かべた。
――あそこならグランドピアノを置いても余裕があるか……。
グランドピアノのサイズは様々あるが、最低でも3畳分のスペースをとってしまう。
もちろん古い縦型ピアノは処分するつもりだ。姉の和江が子どもの頃に弾いていたけど、高校受験の時にやめてしまい、それ以降、ほとんど弾かれることはなかった。
それでも和江のピアノは、ずっと居間に鎮座し続けた。
やがて恵美子がピアノを始めるようになり、和彦が恵美子を連れて実家に帰った時だけ、その古いピアノは音を奏でた。
が、調律もろくにされてないから、その音の狂いが恵美子は気になるらしく、恵美子は実家のピアノを『拗ねているピアノちゃん』と呼んでいる。
親バカながらに恵美子のその感性を素晴らしいと思いつつ、『拗ねている』という表現が姉の和江を言い表しているようで思わず苦笑してしまった。
――なかなか結婚できない姉さんは拗ねているのかもしれない。
姉はかわいそうな人でもあるのだ。
自分は我が子というかけがえのない存在を手にしているが、和江にはそんな存在はない。
従弟の文雄も同様だ。
そんなものがあることすら知らないとすれば、それは何て薄っぺらくつまらない人生だろうか。
子育ては大変だが、それ以上に大きな幸せと夢と希望をもたらしてくれる。
恵美子は、大きく気落ちしていた母親を励ますかのようにピアノの練習に励んでいるという。
この前、音大の教授のレッスンに行ってきたらしいが、教授からもお褒めの言葉をいただき、これから大事に育てていきたいとおっしゃってくれたそうだ。
恵美子には夢と希望がいっぱいある。どんな可能性が眠っているか……未知数だ。
――姉さんや文雄君にはこういった夢は理解できないのだろうな。
が、ここでふと、こんな問いが和彦の頭をかすめる。
自分はなぜこれほどまでに姉や従弟の沢田文雄を否定したいのか……。
それは、自分たちの欲を通すために彼らを押し退けた罪悪感の裏返しである――そのことに気づきそうになって、和彦は思考を停止させる。
「恵美ちゃん、もう寝なさい」
真理子の声が響いた。
恵美子は「は~い」と返事をしながら、「パパ、おやすみなさい」と和彦から離れていった。
我に返った和彦は硬くなっていた頬をゆるめる。
「ああ、おやすみ」
そう応え、恵美子が寝室に入るのを見送りながら、照明が落とされた薄暗いリビングへ目を向ける。
そこに鎮座する恵美子のアップライトピアノ。
その向かいに置かれているクリスマスツリーの点滅している電飾がピアノの黒いボディに映り込み、恵美子の未来を祝福するかのように輝いていた。
――恵美子のためなら……どんなことでもしよう。
食卓に着いた和彦は、真理子が用意してくれた夕食をかき込む。明日も頑張らねば。
大切な家族を前に、違う世界に住む人たちへの罪悪感は霧散していく。
――恵美子と真理子、そして母が幸せであればそれでいい。
和彦が思い浮かべる『縁』の中に、姉の和江と従弟の文雄の姿はなかった。