短編連作物語「これ縁」フェミニスト福田みすず編最終話。恋愛や結婚の呪いから自由に。以下本文。
○○市役所。仕事の合間の昼休み。
コンビニへおにぎりを買いにきた福田みすずは、小林和江の従弟が描いているという漫画が載ったコミック誌を探す。小林主任が各課に出向き、「今度、単行本が出るのでよろしく」と話題にしていたからだ。
ただ、ちょっと残酷な描写があるらしいのだが……自分はさほど、そういったことは気にならない。
「漫画かあ。久々だなあ」
最近は少し遠ざかっているけど、学生の頃は割と青年コミック誌を読んでいたので、そこそこ楽しめるだろうと思い、そのコミック誌を手に取った。
「あの小林主任の従弟が漫画家ねえ……」
広報課室に戻り、自分のデスクでおにぎりを食べながら、目当ての漫画を開いた。
が、読み始めてすぐにその内容にギョッとする。
「こ、これは……」思わず声に出していた。
その漫画は――主人公の従兄とやらが今回の物語の肝となっているのだけど、その名前が『郷浩志』で、姿形はまさにあの郷田浩を彷彿とさせていた。
あらすじはこうだ。
――浩志の母親が脳出血で倒れ、介護が必要な体となる。が、浩志一人で面倒を見切れない。公の施設はなかなか入れないし、民間の施設は経済的に手が届かない。
そこで浩志は親戚が勧めてきた見合いをする。
相手は不細工ながらも役所に勤める公務員。零細企業に務める浩志が仕事をやめて介護をしてもいいし、両方の収入を合わせれば、民間の施設に母親を入れることもできる。
女の容姿は気に入らないが、浩志は渋々結婚を決める。
だが、その直後、母親が今度は脳梗塞を起こしてしまい、ついに亡くなってしまう。
女はもう用済みだとし、結婚を取りやめることにした浩志だが、女は逃げる浩志を許さず、浩志を責め立て、こう言い放つ。
「お母さんが亡くなって、ホッとしたでしょう。私と結婚しないで済んだのだから」
女のその言葉は浩志に突き刺さる。母親思いだったはずの浩志が認めたくない言葉。
なのに女は挑発するようにその言葉を何度も何度も繰り返した。
そして――怒りに我を忘れた浩志は、女を殺してしまう。
浩志が別れ話を切り出した場所は人気のいない木工工場近くだった。女が泣きわめいたりして修羅場になってもいいように人目がないところを予め選んでおいたのだ。
が、女よりも浩志のほうが暴発してしまった。
浩志は近くにあった木材で女を何度も何度も執拗に殴り、撲殺する。
女の不細工な顔はぐちゃぐちゃになり、血に染まったただの肉塊と化す。
「……ひっ」
ページをめくり、見開きで血まみれとなった女のつぶれた顔が目に飛び込んできた時、みすずはコミック誌を落としそうになった。
その後、浩志は高校時代の友人であり手下でもある田澤なる人物を脅して協力させ、アリバイ工作をするものの、主人公にアリバイ工作を見抜かれてしまい、ごまかせないと悟った浩志は警察へ出頭する――といった内容だった。
作品を読み終わり、みすずは暫し呆然とした。周囲の音が消え、心臓を打つ音が鼓膜に響く。
この漫画はどう見ても、あの郷田浩と自分のことをモデルにした話だ。
しかも殺される女の顔の造りや個々のパーツは自分にそっくりだった……。
――私はこんな詳細な話、家族にも話していない。この漫画家は郷田浩側の関係者だ。
あまりの怒りで心臓が脈打ち、耳鳴りがしてきた。
「この私をこんな形で侮辱するとは……」
郷田浩の人間としての卑劣さ、そして漫画とはいえ、描写されている男の暴力性にそのおぞましさに吐き気を催す。特に女への撲殺シーンは残虐この上ない。
が、ここでハタと思い直す。
よくよく考えてみればこの漫画は、郷田浩=郷浩志が、いかに身勝手で卑劣で最低な男であるかが余すことなく描かれている。挙句の果てに犯罪者となるバッドエンドだ。現実の郷田浩よりも酷い。
郷田浩がこの漫画家へネタを提供したとしても、こんな内容になることをよく許可したな、と不可解に思った。
漫画の『郷浩志』は自首するが、殺した女への謝罪の言葉はない。犯した罪の反省はするものの、殺害した女へひとかけらの思いやりも見せない。その徹底的な悪辣ぶりに、共感できるところは一つもなかった。
漫画はこう締めくくられている。
『郷浩志の記憶からこの女が消えることは決してない。浩志にとって忘れられない女となった。女の身体は消えたが、いつまでも浩志の頭の中に存在し続けるだろう。それが郷浩志への罰だ』
そして女のほうは――結婚こそが女の幸せだと思い込んでいて、破談になることが恥ずかしく、受け入れられずにいた結果、浩志を激しく責め立て、惨殺されてしまう――いわば『社会の価値観に縛られた犠牲者』として描かれていた。
もし女が結婚にこだわらなければ、破談を恥だと思わなければ、悲劇は回避されていただろう。
そう、女は男に執着したわけではなく、結婚に執着してしまったのだ。
女は自分の容姿が劣っていることを自覚しており、破談になって職場の人間や友人から陰で哂われることを恐れた。
結果、女は心理的に追い詰められ、郷浩志を責めたことで殺されてしまうのだ。
女の周りの人間たちは、女が殺されたことに表向きは気の毒がるが、内心は高揚していた。こんな面白い事件が身近に起きるなんて、と。
被害者の知人という立ち位置は彼らをワクワクさせた。
――容姿が劣った哀れな女、男に執着して惨殺される。
かわいそう、かわいそう、かわいそう。
皆が皆、女を見下す。死者への冒涜。
同情の中からひそやかに顔を出す醜悪な心。
つまらない日常に突如出現したお祭り。
あちこちで咲くウワサ話。ショッキングな事件だからこそ、興味は尽きない。
ある意味、手を下し罰を受ける郷浩志よりもえげつない世間の面々。
女の死を本当に悲しんでいるのは遺族だけ。
でも、これが世の中というもの――そんな残酷な描写がされていた。
結局、この惨めな女は『世間が良しとする価値観』に囚われ、その呪いを解くことができず、不幸に終わってしまった。
彼女を殺したのは郷浩志だが、彼女を死に導いたのは、誰だろうか。
ページをめくる度に心が引っ掻き回される。
こんなに感情を揺さぶられた漫画は初めてだ。
「この漫画家……結構すごい……かも?」
こんなに凄まじい内容を、これだけのテーマを盛り込みつつも56ページに収め、読ませる作品に仕上げていた。ページをめくる手が止まらず、物語の牽引力は圧倒的だった。
みすずの怒りはいつの間にか潮が引くようにすっと収まっていた。
自分はもう、こういったえげつない男女のつきあいからは完全に手を引くのだ。
恋愛や結婚からも距離を置く。縁があるかないか、それだけのこと。
――私は、この漫画に登場する女とは違う。
すぐに枯れて価値がなくなる花のような生き方はしたくない。
花だけにしか価値を見出せない人間ともおさらばだ。
コンビニおにぎりを食べ終え、コミック誌を手に小林主任のいる市民生活課に行こうと腰を浮かせる。この『サワ』という漫画家のことを訊きたい。郷田浩との関係も気になる。
が、すぐに思い留まり、そのまま椅子の背にもたれた。
小林主任に、自分がこの漫画に登場する『女』のモデルだとは言いたくない。
自分はこの女とは違う生き方をするのだ。漫画の女と自分は関係ない。
自分は世間の呪いから自由になったのだ。
それにこの漫画家のことをあれこれ尋ねたところで、プライバシーに触れることは答えてくれないだろう。
「まずはこのサワ先生の単行本を手に入れるか……」
そこでみすずはふと思う。
――そうだ、今年のクリスマスは……誰にも気兼ねなく、独り気ままに自分の部屋でケーキと紅茶をいただきながら漫画を読みふけるなんていいかもね。
うん、悪くない。
「寂しいクリスマス」「かわいそう」と見下す人もいるだろうけど、そんなの知ったことではない。そもそもクリスチャンでもないのにクリスマスを祝うことのほうがおかしい。
負け犬で結構。哂いたきゃ哂え。もう二度と呪いにはかからない。世間の価値観とは縁を切る。
――お独り様クリスマス、上等。