これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

海の日の孤独なる幸せ―社会の爪弾き者

長山春香を専属アシスタントとして雇うことにしたオタク漫画家・沢田文雄。

――孤独こそ安らぎ。他者がいると警戒しなければいけないから――

虐められっこ・社会からの爪弾き者として、沢田文雄、長山春香、それぞれの視点から語られる。
海の日について雑学あり。

以下、本文。

   ・・・・・・・・・・

 梅雨が明け、濃厚な湿気と猛暑に支配される過酷な夏がやってきた。

 閑静な住宅街の一角にある小林家。木々が生い茂る公園が近くにあるためか蝉の声が騒がしい。日差しを受けた路地が白く照らされ、よりいっそうの暑さを誘う。

 そんなうっとうしい夏を遮断するかのように、窓とカーテンを閉め切り、エアコンをかけた快適な部屋の中で、漫画家・沢田文雄はアシスタント2名と共に作画作業に入っていた。

 そのうちの一人・長山春香は6月にも臨時で入ってもらっていたが、文雄はその作画能力の高さに惚れ込み、専属として雇うことにした。

 こう言っては何だが、およそ女を感じさせないところも良かった。心置きなく、もう一人の男性アシスタントと泊まり込みで仕事をお願いできる。

 春香と初対面した時、文雄は自分と同じ臭いを感じた。
 社会不適合者――世間から弾かれてしまった者。
 イケてない容姿、覇気がない不明瞭な口調、表情が乏しく暗そうな性格、学校ではヒエラルキーの一番下、おそらくイジメられた経験もあるだろう。人づきあいも苦手そうだ。

 一方、もう一人のアシスタントはごくごく普通の青年だ。社交的でよくしゃべる。割とモテるらしく彼女もいるという。
 表向き、市民権を得たオタクも今は様々。彼のようなオタクであれば、世間は歓迎するようだ。

 そんなアシスタントたちと机を並べ、文雄の作画作業は5時間ほど続いていた。

 BGMはかけない。静かなほうが集中できる。遠くなった蝉の鳴き声とエアコンの送風音が耳を撫でる中、ペンが走るカリカリという硬質な音が心地良い。
 ちなみに文雄はトーン処理はデジタルでこなすが、基本、アナログ派である。

 いつの間にか日が暮れていた。腹も空いてきた。集中力も途切れ始める。

 そろそろご飯にしようと、青年アシスタントに弁当を買いに行かせ、春香には引き続き作業をしてもらう。画力能力が高い春香に漫画以外の仕事をさせるのは勿体ない。春香の手でできるだけ作業を進めてもらいたかった。

 そのうち青年アシスタントが弁当を入れた買い物袋を下げて、汗を拭き拭き帰ってきた。

「いやあ、生き返ります。外はもう半端ない暑さです」
「ご苦労様。じゃあ、いただきますか」

 文雄は手を止め、アシスタントを労い、席から立ち上がった。
 青年アシスタントはローテーブルの上を片付け、買ってきた弁当とペットボトルのお茶を置く。

「長山さんはどうしますか?」
 答えは分かっているものの、文雄は一応春香に声をかけた。

「あ……私は、あとでいただきます……」
 いつもの言葉がモソモソとした口調で春香から返ってくる。
 毎度のことなので青年アシスタントも気にする様子はない。

 春香は人と一緒に食べるのが苦手らしく、毎回、文雄たちと時間をずらして食べていた。
 食べている姿を人に見られるのが嫌なのだそうだ。

 文雄はふとクラス中からハブにされていた高2の頃を思い出す。
 昼食時、クラスメイトらは各々、仲のいいグループ同士でくっつき合う。その中で孤島となった自分の机で、いつも急いで弁当をかき込んでいた。

 ほかの皆が仲間と共に楽しそうに食事をしている中、独りぼっちの惨めな姿を見られたくなくて、早食いをし、食べ終わった後は机に突っ伏して寝ている振りをし、長い昼休み時間を過ごした。寝ていると、誰かが悪戯を仕掛けてくる危険性があったが、そうでもしていないと間が持たなかった。

 大学に入ってからも独りで学食に行き、食事という作業をさっさと済ませるようにしていた。

 大勢の中で独りポツンとしているのはキツイ。食べている時は特に。
「食事は楽しいもの」「独りでの食事は味気ない、寂しい」という世間一般の価値観があるからだろう。

 そう、自分の場合は「大勢いる中、独りで食べている姿」を人に見られたくなかった。学校での昼食時は文雄にとって一番イヤな時間だった。

 それでも今は、アシスタントと一緒にご飯を食べるようになり、食事が楽しいと思えるようになった。漫画という共通項があるので話題も合う。
 志を共にする仲間との食事はリラックスできる貴重なひと時だ。

 なのに春香はその輪に入ってこない。

 ――よほど人が苦手なのかもな……。

 文雄も気心が知れるまでは他者を警戒する。
 連載を始めた頃はアシスタントに対してもどこか遠慮していた。アシスタントからどう見られているのかも不安だった。

 先生と呼ばれるけど、かえって居心地が悪い。
「沢田さんでいい」と言ったが、けじめがつかないとアシスタントが反対したので、仕方なしに「先生」と呼ばせている。

「ごちそうさまでした」
「さ、そろそろ仕事に戻りますか」

 もう一人のアシスタントと弁当を食べ終えた文雄は再び春香に声をかけた。

「長山さんも適当に休んでください。長山さんの分のお弁当はテーブルに置いておきますね」
「はい……」

 春香の消え入るような返事を背中で聞き、食べ終えた弁当の容器を片づけ、文雄は机に戻った。

 再び作業開始。
 春香が席を立った気配を感じたが、意識を原稿に集中させ、ペンを走らせる。
 数コマ描き終え、息をつく。

 何となしに春香のほうに視線を向けると、春香は背を向け、ローテーブルで黙々と弁当をかき込んでいた。味わっているというよりも、ただただ口に詰め込んでいる感じだ。一生懸命、咀嚼し飲み込んでいる様子が後姿でも見て取れた。

 ――食べている姿を人に見られたくないから、一緒に食べるのは嫌……か。

 何だか分かる気もした。
 食べている姿は無防備になる。無防備な姿を人に晒したくない。人が怖い。

 これは大勢の人間に哂われバカにされ受け入れてもらえなかった人間だけにしか分からない感覚かもしれない。

 おそらく、彼女は独りでいる時はリラックスして食事をしているのだろう。独りがラクなのだ。

 文雄は春香に何も声をかけなかった。それが文雄なりの気遣いだった。
「もっと、ゆっくり食べていいよ」とか、ましてや「一緒に食べよう」というのは余計なお世話だ。

 春香の他者への警戒感はそう簡単に解けるものではない気がする。
 文雄自身、他人とそう簡単に打ち解けることができない。
 春香は文雄以上にそれが強い。

『独りは寂しい』と単純に思える人は幸せだ。多くの人に好かれ、愛されてきたからこそ、そう思えるのだろう。

 ――自分たちは世間の爪弾きもの。世間の『普通でまともな人たち』の視線から逃れたい。

 独りでいるよりも、大勢でいるほうが辛い。

 ただ「独りは惨めだ」という世間の人たちが押し付けてくる価値観がなければ、自分たちのような人間は、もうちょっとラクになれるだろうに。

 文雄はどこか春香と通じ合うものを感じていた。

「ごちそうさまでした……」
 春香の遠慮気な声に、文雄はあえて応えることはなく、そのままペンを走らせる。
 何も反応せず、放っておくほうが、春香にとってありがたいはずだ。

 余計な気遣いは無用。

 いつの間にかアシスタントの気配やエアコンの送風音が文雄の耳から消えていた。
 己のペンが走る音のみを感じながら、文雄はただただ描くという行為に没頭した。

   ・・・

 漫画家・沢田文雄のもとで三泊四日の泊りがけの仕事が終わり、梅雨明けの炎天下の中、長山春香は小林家をあとにした。
 沢田先生は「夕方までエアコンの効いた仕事部屋にいてもかまわない」と気遣ってくれ、もう一人のアシスタントは先生の言葉に甘えたようだけど、春香は早く独りになりたかったので、お暇してきた。

 それにしても暑い。
 辺り一帯の空間は蝉の声で埋め尽くされ、春香の鼓膜を震わせていた。

 焼けつくような日差しを浴びながら、路に落ちた自分の影と伴走する。

 ――こんな日は海に行きたい。

 昔のことがふと甦る。

 あれは中2の時の夏休みだった。
 児童養護施設で海水浴に行くイベントがあった。

 ぜひ海というものを生で見てみたかったが、水着姿になるのはどうしても嫌だった。

 ――みっともない。

 肌が汚く、色黒で女にしては毛深く、固太りの自分の体。足はまさにゾウの様。

 夏休み前、イジメの標的にされていた春香は、体育の水泳の時にこんな仕打ちを受けていた。

「お前、プールの時は休めよ」
「ゾウさん菌が移る」
「ゾウさんの水着姿、目が腐る~」
「汚いもの見せるなよな」
「気持ち悪いんですけどっ」

 男子生徒たちからの容赦ない言葉の拷問。
 自分に向けられる人の視線が痛く、嘲笑が耳に突き刺さる。

 春香がプールに入ると女子生徒らも露骨に顔をしかめた。

 その日、キラキラグループの女の子たちは、全員、水泳の授業を休んだ。「生理なんです」「風邪気味です」「体調が悪くて」と言えば、体育の先生も承諾するしかない。

 授業が終わり、春香が着替えに戻ってくると、制服はあるのに下着だけがなくなっていた。
 おそらく、授業を休んでいたキラキラ女子グループの子たちの仕業だろう。

 でも、下着がなくなったなんて、恥ずかしくて先生に言えなかった。
 制服だけ着て、パンツとブラジャーなしでやり過ごすしかなかった。

 下着がない状態でいるのは心許なかったし、何といっても春香の羞恥心を刺激した。

 女の子たちのヒソヒソ話が春香を取り囲む。
 春香が下着を着ていないという話が男子生徒らにも伝えられたのだろう、彼らは口に手をやり、吐く真似をしていた。

 いつもの光景。
 彼らの口から必ず出てくる「気持ち悪っ」「キモ」という言葉。もはや春香の代名詞だ。

 ただ、春香は彼らの矛盾する行為に呆れてもいた。
 ――気持ち悪いと言いながら、私の下着に手を出すなんて……。彼らにとって最も汚らわしいものだろうに。

 それから2度目の水泳の日がやって来て、授業が始まる前、春香は一部の男子生徒らから詰め寄られた。

「一緒の水に入りたくないんだよ。休めよ」
「お願いだからさあ」
「なあ、生理だって言って休めばいいじゃん」
「って、こいつ生理あるの?」
「うええっ、気持ち悪っ」
「勘弁して~」
「休む理由は風邪ということにしておけ」

 そう言って男子生徒らはゲラゲラ哂った。

 イジメている相手の『性』の部分を哂い、貶め、侮辱することで、劣等感を抉り、深く傷つけることができる――最高に盛り上がれる残酷なイベントだ。

 以降、春香はプールの授業に二度と参加することはなかった。
 教育委員会へ手紙を書き、表向きのイジメが止んだ後も、中3の時も、高校に上がってからも、春香は水着を着ることを拒否した。

 なので、この最低なイジメを受けた中2の夏、春香のいた児童養護施設で海水浴イベントが催された時も、春香は海には入らず、見学ということで参加させてもらった。

 生まれて初めて見る海は素晴らしかった。
 学校の教室に施設の部屋、いつも狭いところに押し込められていただけに、広々とした海と空の解放感に心が躍った。

 寄せる波音に、砂浜で施設の子どもたちの遊ぶ声。
 空の青より深い海の色。

 遠い異国につながっているのだろう海の世界はいろいろな物語を想起させ、春香を自由へ誘った。

 醜い世界ばかり見せられてきたからだろうか、全てを飲み込んでくれそうな海をこの上もなく美しく感じた。

 もしこの醜悪な世とおさらばするとしたら海を旅立ちの場所に選ぼう……そう思った。海に抱かれて逝きたい。

 その後、夏休み中、ずっと海の絵を描いて過ごした。

 ――そういえば、海水浴イベントも……相変わらずヤバ女と四条先輩は不参加だったっけ。

 施設で一緒だったあの二人のことが頭を過る。

 彼らも自分と同じ、壁を作り周囲から距離を置いていた気がする。
 その後、高校を卒業し施設を出たヤバ女と四条先輩がどうなったのかは知らない。その前に春香のほうが高校中退し、施設を出てしまったので、そこで施設の人たちとの縁は切れてしまった。

 そんなことを考えていたら、何だか急に海を見たくなった。
 明日、どこかの海を訪ねてみようか。『海の日』はもう過ぎてしまったけれど……。

 ちなみに今現在『海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日』として祝日化された海の日は7月第三月曜日となっているが、平成7年に制定・翌年に施行された時は7月20日だった。

 それ以前は『海の記念日』と呼ばれており、明治9年に灯台巡視船『明治丸』で東北・北海道地方を航海をした明治天皇が7月20日に横浜港に帰着したことが由来となって、昭和16年に制定された意外と古い記念日なのだ。

 蝉の声が一段と騒がしくなり、酷暑に押しつぶされそうになりながら、春香はやっと古びた6畳一間の自宅アパートの前にたどり着く。
 ドアを開け部屋に入ると、ねっとりとした濃密な熱気が絡みついてきた。

 春香はさっそく窓を開け放ち、服を脱ぎ捨てる。
 むせ返るような暑さは変わらないが、のびのびと解放した気分を味わう。

 他人の視線がない。それだけでホッとする。
 自分が醜いことも忘れさせてくれる。

 そもそも、春香が醜いのかどうかは他人が決めていることである。
 つまり他人がいなければ、春香は自分が醜いと思わなくて済むのだ。

 ――人目がない孤独の中でこそ自由に息ができる。

 春香は狭い浴室でシャワーを浴びながら、頭の中にある美しい海の光景を思い起こす。
 醜い世界から心が解き放たれる。

 孤独であることは春香にとっての安らぎだった。

 

 

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