これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

他人の不幸は蜜の味☆友だちはいなくていい

世間が良しとする価値観から外れてしまった人間はコンプレックスに苛まれ、たいてい人間関係が上手くいかず、ストレスになる。

そんな人が気持ちよく生きるにはどうしたらいいか、考えてみた。

目次じゃ!

友だちはいなくてもいい

見下す友だちはいらない・独りが好き

いじめ・差別・蔑視は、もう仕方ないこと、人間の性じゃ。そう割り切るしかない。

ただ、学校や職場など閉じられた世界にいると、心を病んだり、傷ついたりする人もいる。若い人は承認欲求が強いから辛いだろう。

周囲のえげつない人たちの承認を得たところで、それってそんなに価値があるか? とは思うものの、逃げ場のない狭い世界の中で、見下され哂われるのは相当、堪える。

その中で、できるだけ快適に過ごすにはどうしたらいいのか、だよなあ。闘うのもいいけど、周囲と距離の置くのもいいかもしれない。

独りで過ごすの悪くないぜ。「友だちはいなくていい」とワシも思っておる。

そこで、 ツイッターで見つけたこの漫画を紹介しよう。

※3人グループの『私』の立ち位置――友だち2人の後ろについていく『私』。靴紐が解けても立ち止まるわけにはいかない。靴紐を結び直すために立ち止まったら、前にいる2人は『私』に気づかず、『私』にかまうことなく先に行ってしまい、置いていかれてしまうから――という内容。

そうそう、ワシも高3の時、こんな感じだったっけ。3人グループっていうほど仲が良かったわけではなく、ワシが2人についていくという感じで、割と置いてけぼりを食らった。

今のワシなら全く独りで平気なんだけど、中学や高校って独りで居づらい空間だよね。

けど、そういった空気が変わるといいよねえ。うん、友だちなんていなくても別にいいじゃん。

リンクした漫画の『私の前を歩くお友だち2人』は、後ろにいる『私』を気遣わない=どうでもいいと思っている=軽く見ている=見下している、ということだ。

そんな人間とのつきあいなんぞ無駄。つうか、マイナス。早く離れたほうがいい。
……と今なら思う^^;

自分の時間を、自分を見下している他者に合わせるの、もったいないよ。
自分の時間を大切にしようぜ。

で、独りで気楽に、行きたいところに行こう。別に友だち一緒じゃなくていいじゃん。
リンク先の漫画のように、靴紐も結びたいからと、前を歩くお友だちを呼び止めなくて済む。マイペースで歩ける

友だちから「どうでもいい人」と思われている自分は、その友だちから『価値がない人』と思われているわけだ。

けど、その『価値のある人』になるのも、これまた難しい。

※ちなみに『価値がある人』とは、『いいように利用される人・使われる人・搾取される人』じゃないからね。

他者から価値を認められるっていうのは、本当に難しいことだ。

あなたは「世界に一つの花・オンリーワン」かもしれないけど、その花は踏みつけられるかも。あるいは花が咲いていることさえ気づかれない。無視されるかも。
そっちのほうがデフォだと思っておけばいい。

いやあ、なんかさ、世間って独りでいることを「かわいそう、不幸、人間として寂しい」とマイナスに捉えるけど、その価値観ってうざくね?

つうか、本当の友だち・恋人って、まあ、そんな簡単に作れないし、見つかるもんじゃない。
特に中学高校なんて、クラス替え、あるいは卒業したら、ほとんどは疎遠になっていくんじゃないか?

あなたのことを「どうでもいい=価値がない」と思っている人たちとのつきあいこそ、価値なんぞない、どうでもいいことである。

靴紐は結ぼう。置いていかれても、追いかける必要もない。行きたければ独りで行けばいいし、さほど行きたいところじゃなければ帰ればいい。

『とりあえず、友だちや恋人を見つける』よりも、自分が夢中になれることを見つけて、それに邁進したほうがいい。

その過程で運が良ければ、縁があれば、お互いに価値を認め合う友だちや仲間、あるいは彼女彼氏ができるかもしれない。もちろん、できないかもしれないが、それならそれで別によし。

世間様の価値観に惑わされて、どうでもいい人間とつきあうほうが寂しいぜ。

友だちと約束はしない

学生時代、約束したのに反故にされたことが2回ほどあったっけ。

今のようにケータイがない時代だ。遊ぶ約束をし、待ち合わせ場所に行ったものの、いくら待っても友は現れず、すっぽかされた。(中学時代と高校時代に1回ずつ)

すっぽかしの理由は『忘れた』だ。相手にしてみれば、ワシとの約束などその程度のものだったということだ。ハッキリ言って、ワシは見下されていたのだ。

今思えば、その相手は友だちではなかったのだろう。

しかし独りでいることが恐怖だった学生時代、友らしき者をなくすというのは大変勇気がいる。ワシにしてみれば、ただでさえ少ない友だ。結局、約束をすっぽかされたワシは怒ることもせずヘラヘラと許した。そういったことも見透かされていたのだろう。軽く扱われるのも仕方ない。

ただ、今でもワシは怒ることはしないだろう。黙って離れる。二度と約束もしない。すっぽかされことにより無駄になったワシの時間を返せ、と思うが、さらにそんな喧嘩で時間をかけるのは無駄。

というか、今のワシは極力、約束はしない。すっぽかされることが嫌というよりも、約束に縛られるのが面倒。ワシごときのために相手の時間を奪うのも恐縮だしね。

そう、ワシごときに時間など割いてはならぬ。その代わり、ワシも割かぬ。自分のために時間を遣おうぜ。

↓『これも何かの縁』番外編「自分のランクを守るため、ランクの低い友だちとの約束をわざと反故にして縁を切る話」はこちら

弄られキャラ

友だちから軽く見られる中、自虐して、自分を守ろうとする人もいる。他者から哂われるよりも先に自分を哂って、傷を小さくしておこうという防衛策。

哂われて、皆を楽しい気分にさせれば、少しは好かれるかも?

が、自虐してまで人気者になりたいのか?
そっちのほうが不健康そう。心がすり減りそう。

そこまでして人にすり寄って、何かいいことあるのかね?

弄られキャラ――ワシはなりたくないね。他人に弄られても、そこには親しみだけではなく、必ず侮蔑が込められているから。

分かりにくい侮蔑より、分かりやすい侮蔑のほうがいい。見下している本人たちも、自覚しているだろうからね、イジメているって。

反対に、無自覚な侮蔑ほどタチが悪いものはない。罪悪感が全くないからね。その上「親しみを込めているんです」などと言い訳する。

自虐して友だちや人気者にすり寄るよりは、まだ孤独でいたほうがいいかも。ぼっちでいこうぜ。友だちなんて別にいなくてもいいじゃん。自虐で得た友など価値なし。

哂われて凹んでいるそこのあなたへ。哂われたら「うん、どうぞどうぞ、侮蔑しまくって、優越感に浸ってくださいな」と放っておけ。

こういった見下し人間には関わらないほうがいい。心の健康のためじゃ。

ひょっとすると、世間の価値観に惑わされることなく我が道を行けるオタクのほうが、幸せかもしれない。
周囲から侮蔑や蔑視を受けても、好きなもの、熱中できるものがあるというのは救いでもある。

恋愛もしなくていい・恋人もいなくてもいい

ネット界では『はあちゅうさんの童貞弄り』を批判する人は多かったものの、若者の恋愛離れを懸念する世間の本音は――いつまでも童貞や処女でいるのは恥ずかしい?

そういえば平安寿子の短編連作小説『恋愛嫌い』では、彼氏とエッチするのに処女だと恥ずかしいから、ほかの男に頼んでエッチしてもらって処女を卒業する、といったお話があったっけ。

恋愛嫌い (集英社文庫)

恋愛嫌い (集英社文庫)

 

ちなみに『恋愛嫌い』は――女の世界は恋の話題で溢れている。でも、なじめない人間だっている。恋愛願望がなく、恋愛は苦手。そんな女性たちの本音をリアルに軽やかに描き、明日へのエールをおくる小説集。

ということで、まずこの記事を紹介しよう。

マッチョイズムに支配された世界の下、童貞弄りは男同士でも行われているようだ。嫌な思いをしている人もけっこういるだろうに、男同士だとセクハラにはならないのかな。

20代男性4割が童貞

友だちと同様、恋人・彼氏彼女も別にいないならいないでいいと思う。これも無理して作るものではないだろう。

『20代の童貞』はもう市民権を得て、ごく当たり前のこととなっている。

水野敬也氏の『LOVE理論』を実践するような男=「ブスでもいいから、とりあえずエッチして、童貞を卒業しろ、ブスは踏み台、ブスで練習して、美女を狙え」と言って、童貞を脱するために、好きでもない女を見下しつつエッチする男・女を肉便器扱いしながらエッチする男よりは、ずっといいと思うぞ。

そう、童貞男子は、女性を傷つけないだけずっといい。
いや、傷つけるどころか、世間から見下され、彼らのほうが傷つけられている。

性体験がない人を「情けない」「かわいそう」「気持ち悪い」と見下したり問題視する人も、実はあまり幸せではなく、「経験ありの自分は上だ、あいつらよりマシだ」と自分を慰めていたりして。

「あの人はかわいそう」「自分のほうがマシ」と思うことで、己を慰め、しばしの幸福感を得る――これは『他人の不幸は蜜の味』の一種じゃ。

人間の性

他人の不幸は蜜の味

ドイツにも『他人の不幸は蜜の味』に似た言葉があるんだそうな。
シャーデンフロイデ』――他者の不幸や失敗を見聞きした時に生じる、喜びや嬉しさなどの快い感情を表す。

ゲスいけど、これも人間というものなのかもしれぬの~。

シャーデンフロイデ』は人間の感情のひとつと言われる。他人の不幸により、線条体と呼ばれる『報酬に関する部位』が活発になるんだとか。それは脳科学で証明されている。
また、別の研究でも、『シャーデンフロイデ』にはストレスを緩和する効用があるとのこと。

人の不幸で気分がスッキリ。
『見下し人間』もこれと同じなのだろうな。

世間が良しとする生き方ができる人は本当に立派で偉いと思うが、それができない人・合わない人もいると思う。

皆に認められる生き方は『社会に都合のいい生き方』とも言える。そんなものに無理して合わせなくてもいいのだ。

もち『皆に認められる生き方』を目指したい人は目指せばいい。

けど目指せない人・目指そうとしない人を「人間としていかがなものか」と思ったり、見下したりしたくなったら、おそらく、その『皆の認められる生き方』はあなたにとっても合っていないのだ。相当ストレスがたまっているんだろうから。

承認欲求と劣等感

とはいうものの、承認欲求は集団=社会の中で生きていかなくてはならない人間の本能に仕組まれているらしい。

たしかに太古の時代から人間は集団=社会を構築できたからこそ、生き残ることができた。個人=一匹狼で生き残るのは無理。承認欲求が低く、他者に背を向けるような人は早くに淘汰されていただろう。

今の豊かな時代であれば、他者とさほど関わらなくても生きていけるが、本能に組み込まれている以上、人間は簡単に承認欲求から逃れられないのかもしれない。

そして他者から承認されないと、劣等感を募らせる生き物になってしまった。

なので「友だちいなくていい、彼氏彼女いなくていい」と割り切るのは難しいことかもしれない。

ただ、承認欲を満たしてくれるのは友だちや恋人だけではない。

結局、承認欲と劣等感を飼い馴らしながら、世間の価値観に惑わされることなく、よりストレスを感じず、不快感・不幸感をさほど持たなくていい生き方を選ぶしかない。

己を知るものは、さほど不幸にならずに済むのかもしれない。それで御の字。

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