帰る家―戦場・理沙の児童養護施設時代
『人は「失ったもの」には敏感ですが、「手に入れたもの」には鈍感になります』
コンサルタント服部慎也氏のこの言葉に頷かされた。たしかに、手に入れた瞬間は舞い上がるけど、その後は手に入れている状態が『通常』となり、あまり大切にしなくなるよな。
物語『これも何かの縁』の四条静也と理沙の場合、家庭を失い、再びそれを手に入れる。一度『失う』という経験をしているので、彼らなら手に入れたそれをとても注意深く大切に守り続けていくことができるだろう。
ということで、今回は理沙の児童養護施設時代の話。
イジメと暴力の難を逃れるために理沙がしたこととは……。
そして、理沙に暴行を企てた施設の上級生にも辛い過去があった。
今『帰る場所』を手に入れた理沙は何を思う。
前々回の『封印された過去』と対になるお話です。『封印された過去』ほどダークではないのでご安心を。
※静也の過酷な施設時代の話はこちら↓では、以下本文。
・・・・・・・・・・
穏やかな秋の日。
11月初旬。静也と理沙に息子の涼也が誕生してから1か月経つ。
赤ちゃんは丸みを帯びてきて、ますますかわいくなっていた。
白文鳥の『ふっくら』と『ぷっくり』も相変わらずだ。
けれども……夜中の授乳やおむつ替えで、新米ママの理沙はすっかり疲れ果てていた。
覚悟はしていたものの、夜中の度々の授乳は想像以上に大変だった。
仕事に行かなくてはならない静也の睡眠を優先し、理沙は赤ちゃんと居間で、静也は和室で、寝室を夫婦別々にしている。
平日の昼も夜はほぼワンオペ育児。毎日が寝不足状態の理沙だったが、静也が休みの日にゆっくり昼寝させてもらい、日々の暮らしを何とか凌いでいた。
ということで待ちに待った休日。
理沙はグッスリ4時間ほど午睡し、赤ちゃんの泣き声で目覚めた。
ハッとして起き上がり、お乳をやる。最近、ようやく飲むのが上手くなったものの吐くことも多い。
授乳している間、理沙の頭は覚醒し、モヤモヤ感が晴れていく。飲み終わった赤ちゃんの口をぬぐい、トントンと背中を軽く叩いてゲップさせ、ベビーベッドに寝かせる。
少しグズッたものの、涼也はおとなしく眠りに就いた。
理沙は大きく伸びをする。昼寝して頭スッキリ。だいぶラクになった。
「さて、買い物にでも行ってくるか~」
平日の昼間は、赤ちゃんの面倒を見てくれる人がほかにいないので外出もできない。寝不足の中、家事育児のルーチンワークで日が暮れる。
買い物は仕事帰りの静也に任せており、家にずっと閉じこもりの理沙はストレスで鬱状態に陥る。気分は囚人。体の中にねっとりとした泥がたまっていくよう。
そんな時、ふと思う。
児童養護施設へ自分の子を預けた親はどんな状態だったのだろう。
誰にも助けてもらえず、肉体的にも精神的にも追い詰められてしまった親もいたのかもしれない。
この辛さは赤ちゃんへの愛情だけでは解決できない問題だった。それでも理沙の場合、静也が助けてくれるので何とか乗り切っているが……。
うちは恵まれているほうだ――理沙は自分にそう言い聞かせ、時たま、ネットでもっと不幸そうなママたちの心の叫びを見つけては己を励ましていた。
基本、他人に無関心な理沙だが、自分を慰める道具として『他人の不幸』を利用するほどに育児は過酷な仕事だった。キレイごとではやっていけない世界だ。
『他人の不幸は蜜の味』というよりも『他人の不幸は元気の素』。
歪んだことをしている自覚はあったが、重く積もる泥濘のような疲労が罪悪感を鈍化させる。
そんな理沙が待ちに待った心の洗濯日――静也が家にいてくれる休日は理沙の買い物デー、心の泥濘を洗い流す日だ。
久しぶりの外出にいそいそと支度をしていると、静也が何となしに話しかけてきた。
「涼也の外出はまだ無理かなあ。男の子なら生後31日目でお宮参りに行くのが風習なんだけど」
ちなみに女の子は33日目に土地の守り神である産土神に参詣する。室町時代からあったという古い儀式だ。
「生後1か月じゃ、ちょっと心配だよね」
理沙は首を傾げながら応える。
「だよなあ。せいぜい外気浴か」
静也としては、理沙と一緒に赤ちゃん連れて散歩に行きたいようだが、それはもうちょっと先になりそうだ。
「じゃあ、あとよろしく。行ってくるね」
「ああ」
静也に見送られて、理沙は外に出る。
秋の淡い日差しと澄んだ青空が気持ちいい。
買い物はいつも近所の商店街を利用するのだけど、今回はちょっと遠くの大型ショッピングモールまで足を延ばしてみることにする。
道行く端々にそびえ立つ街路樹の葉が色づきはじめ、街はすっかり秋の風情だ。
休日なので、ショッピングモールは多くの人たちで賑わっていた。
人混みは嫌いだけど、平日の昼間はずっと家の中で赤ちゃんと二人きりの生活だったのでテンションが上がる。
家族連れも多く、赤ちゃんを抱っこしているママやパパもいた。何か月かすれば自分たちも赤ちゃんと一緒に外出を楽しめる。その日が待ち遠しい。
足取り軽く、まずはエスカレータで家電製品が置いてあるフロアへ行く。最新式の掃除機を買おうかどうか検討中だ。冷蔵庫ももっと大きなものが欲しい。
そんなことを考えながらテレビ売り場を通り過ぎようとした時、ふと理沙の足が止まった。何台か点いているテレビがドキュメンタリー番組のチャンネルになっており、児童養護施設のことが話題にされ、そこで暮らす子どもたちの姿を紹介していた。
テレビの前にしばし佇む理沙の脳裏に施設時代が甦る。
・・・
14歳の時。
両親を自動車事故でいっぺんに亡くした理沙だったが、今まで住んでいた地区の児童養護施設に入所できたので、転校せずに済み、8歳の時から施設に入所していたクラスメイトの四条静也と懇意になっていった。
孤児として児童養護施設のお世話になっていたのは理沙と静也の二人だけ。ほかの入所者は、親の離婚や病気で育児困難になったため一時的に施設に預けられたか、もしくは虐待や育児放棄で保護された子どもたちだった。
家族を失った理沙は、静也以外の子たちと心を通わせることができなかった。一部の子たちからは「悲劇ぶりっ子」と揶揄され、嫌われてもいた。
それに……施設に入所してくる子どもは突然来て、突然いなくなる。理由は公には教えてもらえない。
虐待を受けた子や育児放棄された子自身、なぜ入所してきたのか、あまりしゃべりたがらない。そういったことはウワサとして流れてくるだけだった。
そう、そこは縁を築いて長く育むようなところではなかった。
ある時――
理沙が洗面所で手洗いしていると、同じ施設にいる中学3年の女子生徒が話しかけてきた。
その子は施設での生活も長くボス的な存在で、理沙より学年が一つ上だった。
「ねえ、四条と仲いいみたいだけど、あいつ、やばいよ。そのうちDVされるかもよ」
「え?」
「昔、やらかしたらしいよ。ちょっと普通じゃなかったって。それからは誰も四条に近づかなくなったってわけ」
「……そうですか」
理沙のそっけない反応に、その子は不満げな顔をする。
「うちの言ったこと、信じてないわけ」
せっかく教えてあげたのにというニュアンスを含みながら、にらんできた。
が、理沙は意に介さず、とりあえずこう確かめてみた。
「それから何度も暴力をふるったんですか?」
「え」
「それ一回限り? それだけで四条君を『ヤバいヤツ』呼ばわりですか?」
「……」
その子は押し黙った後、理沙から視線を外し、怒りを含んだ言葉を投げつけた。
「むかつく」
プイッと背を向け去っていくその子を視界の端で捉えながら理沙は乾いたため息をひとつ吐き、自分の部屋に戻った。
それから間もなく――施設の女子から理沙は軽いイジメを受けるようになった。わざと、ぶつかられたり、足をひっかけられたり……。
最初は嫌な思いをしたけど、そのうち慣れた。
陰口は放っておいた。ぶつかられたり、足をひっかけられたりは、こちらが気をつければ防げる。そうだ、両親を失うことに較べたら全然大したことではない。
理沙と静也が世話になっていた施設では、中学生から個室が与えられていた。
しかし異性の個室への行き来は禁止されており、男女の居室はそれぞれフロアごとに分かれていた。
なので施設の宿舎にいる時は、静也とは別々になった。中学生以上の男女の個人的な交流は認められてなかった。
女子が集まる宿舎の中で、理沙は独りぼっちだった。
でも全く気にならなかった。門限ギリギリまで静也と一緒に学校か公立図書館にいることが多く、施設に帰ってくれば食事と入浴を済ませ、あとは居室に戻って寝るだけの生活だ。
ほかの子との交流は持とうとは思わなかった。いや、あえて避けていた。
静也以外は皆、両親だろうが片親だろうが、親がいるのである。自分とは境遇が違う。分かり合えるはずがない。
この人たちとは施設を出れば関係なくなる人たち、どうでもいい人たちだ。
だが、ある日――その事件は起きた。
シャワーを浴びている時、浴室で三人の女生徒に囲まれた。一人は中学3年の例のボス、残り二人は中学2年と中学1年だった。
「あんたさ、ちょっと生意気なんだよね」
ボスが詰め寄ってきた。
「何が?」
理沙は後ずさりながらもボスから視線を外さなかった。
――外したら負ける。
静也からもこう注意されていた。「イジメにあったら……なめられるな。初めが肝心だ。ハッタリが効くようだったらかまして、隙を見て逃げろ」と。
トイレと浴室は一番警戒すべき場所だった。覚悟はしていたが――ついに来たか……。
「へえ、あんた、やる気?」
ボスが笑う。ケンカ慣れしていそうだ。
理沙が手にしているのは、体を洗うための濡れたタオルである。
ボスが目くばせすると、家来二人が理沙に襲いかかってきた。
が、すかさず理沙はタオルの端を持って振り回し、容赦なく一人の顔を打った。
パシャっ。その小気味いい音に思わず理沙の口から笑みがこぼれた。
「イヤァ……」
打たれた子はその場にしゃがみ込み、顔を手で覆った。それを見たもう一人が怯んだのか、動きを止めた。
そう、理沙はすでに静也からアドバイスを受けていた。風呂場では水を滴らせたタオルを使えと。
水分を目いっぱい含んだタオルをヌンチャクのように扱えば、武器になる。当たれば相当、痛い。
狙うなら、まず顔、相手の目だ。
顔への攻撃は、とくに相手が女であれば、かなり有効だ。そこで戦意を喪失させることができる。
そして静也はこうも言っていた。「オレの名前を出せ。たぶん……今でも……効く奴には効くと思う」
敵の動きが止まった隙に理沙は声を荒げた。
丁寧語はやめて、はすっぱな言葉を使った。
「そこらの女と一緒にしないでくれる? 私が『静也の女』ってこと分かってる?」
ボスは笑っていた顔を引っ込めた。
――そうだ、静也がヤバいヤツなら、私もヤバい女になればいいんだ。
今まで丁寧語だっただけに、突然、攻撃的な口調になった理沙の凄みは倍加された。
「静也のヤバさなんて、私にしてみれば全然大したことないってこと。あんた、私の過去、知らないでしょ。ヤバい私は、親族全員に養育拒否されて、ここに来たってわけよ」
ここでハッタリをかませる。もうひと押し。
「あとで静也と一緒にあんたらをシメてもいいんだけど?」
これが効いたのか、ボスたちはオドオドし始めた。
「そこ、通してくれる?」
理沙はボスをにらみつけた。本当は心臓が口から飛び出そうなくらいに緊張していたけど、こんな子たちに負けたくなかった。
それに両親を突然失うという恐怖に較べたら、こんなのは恐怖のうちに入らない。
緊張のために理沙の口許は歪んでいたが、相手の目にはそれが不敵な笑みに映ったようだ。
ボスは理沙から視線を外し、すごすごと引き下がった。
それから――
理沙は、施設の女子の間では「ヤバ女」と影で呼ばれ、敬遠された。
けど理沙にとっては願ったり叶ったりだ。どっちみち理沙のほうも、皆と距離を置きたかったのだから。これでようやく静かに過ごせる。
それでも理沙は警戒を怠らず、外にいる時は必ず静也と行動を共にし、決して一人にはならないようにした。
施設内では相変わらず、他人と関わらないようにし、トイレと入浴はさっさと済ませ、食事を終えたらすぐに自分の居室に引っ込んだ。相手とは視線を合わさず、挨拶を交すこともなくなった。
理沙にとって施設は『家』ではなく、気が抜けない――緊張を強いられる場所だった。特にトイレと浴室は心がすり減る空間だった。
・・・
ドキュメンタリー番組はいつの間にか終わっていた。
浴室で理沙を襲おうとしたあの三人がその後どうなったのか。
――ボスは中学卒業と同時に施設を出て、残り二人も突然いなくなった。親元に帰ったか、ほかに養育者が現れたか、あるいは別の養護施設に移ったか――入所者の出入りが激しい施設だった。
職員も平均3年でいなくなる。なので施設長以外とはすぐに縁が切れていった。
あとから小耳に挟んだ話では、ボスも親からの虐待で保護された子だったという。
父親は母親に暴力をふるっていたが、母親が家を出ていってしまったため、暴力の矛先は彼女に向けられるようになった。蹴られて肋骨を折ったことがあり、近所の人の通報によって父親は逮捕されたらしい。
ボスは母に捨てられ、父親から向けられる暴力の中で育ったのだ。
彼女にとって家庭の中こそが戦場だったのかもしれない。
安らぎの場を知らないボスの哀しさ――今ならば少しだけ理解できるような気がした。
いや、ボスだけでなくほかの子たちも愛情に飢えた孤独な子たちだったのかもしれない。
いつか親が迎えに来てくれるのではないか。自分を温かく受け入れてくれるのではないか。家族との縁が結び直されるのではないか――施設へ保護された子どもたちの微かな期待。
しかし、いつまで経っても、その期待は実現しない。今思えば、そんな子も少なからずいただろう。
最初から親を見限ることができる強い子どもはそう多くはない。
期待はやがてあきらめへ、将来への不安と孤独感は嫉妬や苛立ち、怒りへと変わり、粗暴なふるまいとなって現れてしまうこともある。
静也のことを『ヤバいヤツ』だと言ったボスは……もしかしたら、理沙と仲よくなりたいと思って親切心で教えようとしたのかもしれない。
だが理沙は静也をかばった。
その時、ボスは一瞬、寂しそうな顔をしたような気がする。
自分は受け入れてもらえなかった――そう捉えたのかもしれない。
理沙は静也を選んだ代償として、ボスを傷つけたのだ。
――人と関われば、傷つける。そして傷つく……。
『ヤバいヤツ』と言われていた静也も過去にいろいろあったのだろう。
でも、静也が話さない限り、理沙から訊こうとは思わない。静也の過去は追究しなかった。分かったところで、静也の過去に関わることはできないのだから。
それに理沙もこの『浴室で乱闘になりかかった事件』を静也に話していない。
「ま、裸の戦いって……ちょっと……話しづらいよね」
理沙は苦笑しつつも、あの時、一糸まとわぬ姿で独り戦わねばならなかった心細さが思い出され、顔が強張る。
テレビ売り場では――テレビを買うのだろうか、家族連れがあれこれ品定めしていた。
3、4歳くらいの子どもが一番大きい画面のテレビを指さすが、両親らしい夫婦は苦笑し、首を横に振る。
父親がその子を抱きかかえた。母親がその子に何かを語る。
子どもは満足そうな笑みを浮かべ、頷き、父親の肩に顔を埋めた。
微笑ましい親子の姿に、理沙は何とも言えない寂しさに襲われた。
――あの施設にいた子どもたちはその後、幸せになれたのだろうか。孤独から脱することができただろうか。安らぎを得られただろうか。
人々で賑い、家族の幸福が響き合う休日のショッピングモール。
一人だけ取り残された気がして、急に心許なくなる。
――静也と赤ちゃんの顔が見たい。
心がざわめく。
――早く家に帰ろう。
人々の間を縫いながら、足早となった理沙は食品売り場へ向かった。
夕食は、鶏肉に、玉ねぎに人参、ジャガイモにブロッコリー、しめじに、牛乳をたっぷり入れた具だくさんの栄養満点なクリームシチューを作ろう。シチューは静也の大好物だ。
天気予報では今夜は冷えるとのこと。蜜柑湯にでもしよう。
ドラッグストアに寄って、天然成分でできている蜜柑の入浴剤を手に入れる。
蜜柑は柚子の成分と同じく、果皮にある成分が血行促進作用があり、体を温めるので、寝つきを良くするらしい。風邪の予防にもなるし、柑橘系の香りも楽しめる。風呂好きの静也も喜んでくれるだろう。
買い物を終え、ショッピングモールを出る。
西空の淡い残照が雲を茜色に染めていた。ずいぶんと日が短くなった。
夕焼けに包まれた空が、刻一刻と色が落ち、夜へと向かう。
理沙は家路を急ぐ。
街に灯りが点き始め、家々の窓の明かりが増える。周囲の景色の輪郭が薄れ、暗がりに溶けていく。
辺りの色彩がなくなった頃、外灯の向こうに規則正しく並ぶ窓明かりが見えた。
そこには理沙の帰りを待ってくれる家族がいる。
「ただいま」
ようやく我が家にたどり着いた。
ドアを開けた理沙をほんわりした温かい空気が包む。
部屋の灯りに心が安らぐ。
「あ、おかえり」
静也ののんびりした声。
帰る場所を手に入れた幸福を思う。
※次話↓※短編連作小説「これも何かの縁」目次はこちら↓