文鳥と栗の節句―ふっくら・ぷっくり・もっこり
巷では「恋愛=不安定な関係でいるより、家庭をつくりたい」「面倒な恋愛をすっとばして結婚したい」「結婚につながらない恋愛は無意味・無駄」「恋活より婚活」という人も意外と多いと聞く。
不安定な関係よりも安定的な関係を好み、安心安全な環境を早めに手に入れたい――うむ、四条静也・理沙もまさにこれ。もち、安定的な人間関係が『幸福』につながるとは限らないけれどね(簡単に縁を切ることができない関係は軋轢を生み『不幸』を呼び込むこともある)
二人の結婚生活が上手く行っているのは、同じ歳、同じ職場で給料も同格。学歴も同格だからだろう。対等意識が自然に身に着いていて、話題も合いやすい。
児童養護施設育ちであることから、家事のやり方もほぼ同じ(施設で教わる)、金銭感覚も同じ。価値観・考え方が似ているので、衝突が起きにくい。妥協点が見つかりやすい。
そう、育ちが似ているというのも大きい。これってやっぱり『縁』。努力によって叶えられる出会いではない。
ということで、今回は二人の結婚時の思い出話と、文鳥を飼うことになったお話です。
文鳥のこと、重陽の節句=別名、栗の節句・菊の節句関連など雑学満載。
劇中に登場する『シーチキンと玉ねぎのマヨネーズ和えトースト』美味しいよ、お試しあれ。
https://twitter.com/vanilla256/status/922798963261972481
↑『ふっくら』と『ぷっくり』もたぶんこんな感じ。
あんこたっぷりで美味しかった pic.twitter.com/mhjKHyD5OH
— 胡麻@スタンプもあるでよ (@gomanoki) July 7, 2019
では、以下本文。
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9月初旬。
蝉の声も幾分か弱まり、刺々しかった日差しもやわらぎつつあり、秋の足音が微かに感じられる今日この頃。昼間は夏が居座っているかのように残暑が厳しくも、朝夕はいくらかホッとさせられる気候となった。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
産休中の理沙は職場へ向かう静也を見送ると、居間に戻り、鳥籠の中の水を取り替え、エサの残量を確認する。
そう――先日、ついに白文鳥を手に入れたのだ。
ペットショップでは、文鳥にするかハムスターにするか迷ったけど、静也も文鳥のほうに興味あり気だったのと、目をつぶり白いお腹をもっこり膨らませて鎮座していた姿があまりにかわいかったので、文鳥を選んだ。二羽並んで仲良さそうにくっついているのを見て、引き離すのはかわいそうに思い、ペアで飼うことにした。
その二羽の文鳥はまだ生後3か月半。挿し餌をして育てたので人に慣れており、育て方次第で充分懐くとのこと。一羽で飼うほうが飼い主に早く慣れるが、二羽で飼っても手乗りにすることができるそうだ。
こうして二羽の白文鳥を我が家に持ち帰り、さっそく「名前、どうしようか」という話になり――「そうだな、『ふっくら』がいいんじゃないか。ふっくらしているから」と静也が提案。
理沙もその名前が気に入り――「じゃあ、もう一羽は……くちばしが、ぷっくりしているから『ぷっくり』にしよう」となった。
文鳥の場合、オスとメスの見分けが難しい。
オスは生後2~3カ月になると『求愛のためのさえずり』を練習し始める。
一方、メスはそういったさえずりをせず短く鳴くだけなので、これで性別を推測するのだが、オクテのオスもいるため、生後半年経たないと確実な判断はできない。
もし二羽ともオスだった場合、成鳥すれば縄張り争いをするため、ひとつの籠に二羽のオスを入れるのは避けたほうがいいらしい。
けど理沙はこの仲の良さから「すでにカップル成立!」と信じている。
外見での見分け方として、紅色のくちばしがメスより濃く、ぷっくりしているのがオスだというので、『ふっくら』は推定メス、『ぷっくり』は推定オスと見ている。
そんな白文鳥たちは今日も仲良く止まり木に並び、羽づくろいに勤しんでいた。
「かわいい~」
思わず理沙の顔がほころぶ。
仕事に行く静也を見送る度に、何か取り残されたような気分を味わう理沙にとって『ふっくら』と『ぷっくり』は癒しの救世主だ。でも、手に餌を乗せて鳥籠に入れてみるも、文鳥はなかなか寄ってきてくれない。
手乗りへの道は遠い。
「慣れるまで仕方ないかあ」
理沙はソッと手を引っ込める。
窓から忍び込む風に白いレースのカーテンが揺れ、そこから透けて見える空は雲もなく快晴の青を湛えていた。
午後は暑くなりそうだ。その前に家事を片付けてしまいたい。
いつものルーチンワークで手は動かしつつも、理沙の頭の中は今後の生き方について迷いに満ちていた。多くの女性がぶつかるありきたりな問題――仕事と育児の両立ってやつだ。
取り残された気分を味わうものの、専業主婦だと朝食の用意も余裕を持ってできる。今朝もバタバタと慌て気味の静也を横目に「専業主婦もいいかも」と思ったりしていた。
ちなみに今日の朝食は――シーチキンと刻んだ玉ねぎをマヨネーズで和え、からしを塗った食パンに乗せて、その上に細切りにしたピーマンを散らし、トーストした。けっこうボリュームあるので満腹感も得られるし、何といっても栄養バランスがいい。トマトと一緒に食べると最高だ。オレンジジュースとよく合う。静也も大喜びでパクついていた。
けど、そんな生活もそのうち物足りなくなる気がする。
仕事を辞めれば、静也と話題が合わなくなるかもしれない。経済的にも今のような余裕はなくなる。
何といっても、せっかく猛勉強の末、公務員試験に受かって今の職を手にしたのに、それを手放すのも勿体ない。
公務員なので保育園は優先的に入れるはず。だけど、お勤めをしながらの育児は常に時間に追われる生活になるだろう。病児保育の制度は整っておらず、子どもが体調を崩す度に仕事を休んだり早退したり……。
もちろん静也に分担してもらうけど、それでも厳しいことに変わりない。
朝も夜も急き立てられる綱渡りのような毎日――そんな暮らしを自分はしたいのか?
「やっぱり……専業主婦かなあ……」
理沙は亡くなった自分の母のことをふと思う。
母は結婚する前、大学病院に務める看護師をしていた。
父とは――父の母・理沙の祖母が病気で入院していた時に知り合い、その縁でつきあいが始まり、結婚に至ったらしい。
けれど金融機関に勤める父の仕事は転勤も多く、激務だった。
結局、母は仕事を辞め、家族を支える専業主婦になり、育児も母が担った。父はたまの休日に遊んでくれるだけだ。
勉強をさぼる理沙は、母によく叱られていたが、ある時、理沙はこんな理屈を並べた。
「日本語が読めて、ちょっと算数ができれば生活できるもん。それ以上の勉強って役に立たないのに何でやらなきゃいけないの?」
母は困ったような顔をしながらもこう諭した。
「理沙は将来どんなお仕事に就くか、まだ分からないでしょ。まず基礎の知識を学んで、そこから自分の得意なことや好きなことを見つけていくの。だから勉強するの」
「お母さんは? お家の仕事に、学校の勉強、役に立っている?」
この理沙の質問に一瞬、母は表情をなくし、そのまま黙り込んだ。いつも朗らかな母がそんな顔をするのが意外で、理沙は今もその時のことを覚えている。
けどすぐに、母は気を取り直したようにニヤ~ッと笑った。
「お母さんは一生懸命、勉強をして看護師になったの。病院でお父さんと知り合って、結婚したから理沙が生まれたの。もし、お母さんが看護師になれなかったら、お父さんと知り合えなかった……つまり、お母さんが勉強しなかったら、理沙は生まれてなかったんだよ」
「え……」
「将来の道を切り開くために勉強するの。いろいろ選べるって幸せなことなんだよ。さあ、宿題やっちゃいましょう」
ポンと手を叩くと、母は有無を言わさず理沙を机に向かわせた。
上手くごまかされた感じもしないではないけれど、理沙は二度と「お母さんの家の仕事に、学校の勉強が役に立っているの?」という質問はしなかった。
――ひょっとして、お母さんは看護師を辞めたことを後悔していたのでは?
高度な医療を施す大学病院での勤務は大変だっただろうけど、その分、やりがいもあったはず。
けれど、もう母の思いを知る術はない……。
ああ~何で女ばかり、こんなに悩まないといけないのよ……とは思うものの、では静也に仕事を辞めてもらい、専業主夫になってもらえばいいのかというと、それも違う。
仕事も家庭も育児も全てこなす――世間が良しとする生き方は過酷だ。
そんな悶々とした気分を抱え、重い体を引きずりながら、掃除、洗濯とやっていくうち、あっという間に午後になっていた。
そろそろランチにしようと、朝に作っておいた水出し麦茶を冷蔵庫から出す。この時季はまだまだ冷えた麦茶が大活躍。
ちなみに麦茶のパックを水につける時、インスタントコーヒーの粉を一匙入れると香ばしく出来上がる。これがなかなかおいしい。
そして、ゆで卵とワカメ、細切りにした胡瓜、トマト、キムチを乗せた冷麺を作り、それを食べながら録画しておいたDVDを再生する。お盆の時から見ている例のドラマだ。
『ついに夫に切れた主人公ママ、子どもを連れて実家に帰り、離婚の危機』というところまで物語が進んでいたが、今回は主人公ママの過去の話だった。
恋愛のいざこざを乗り越え、結婚、新婚生活と、夫と過ごした幸福な日々が蘇る――それまで険悪な場面が続いていただけに、心温まる展開となった。
理沙は冷麺をすすりつつ、ドラマに重ね合わせるように己の過去を振り返る。
・・・
――静也と猛勉強の末に公務員試験に受かって市役所への就職も決まり、高校卒業を控え、新しく住む部屋を探すことになった。
部屋を借りる時は、児童養護施設の施設長に相談に乗ってもらった。
公務員という地位を手に入れた理沙と静也に、施設長は保証人になることを快く応じ、携帯電話など、未成年であるがため保護者の同意が必要な契約にも法定代理人となってくれた。
が、施設長といえど施設を巣立っていく子どもたち全員の保証人にはなれない。
何かあった場合、施設長個人が責任を負うことになってしまうからだ。
家賃に限っては、子どもたちの施設退所後2年間までは保証する制度が公的に整えられたものの、その後の契約更新は保証対象外となる。
連帯保証代行会社を利用することもできるが、中学の時から『親という保証人がいない不利』を感じていた静也は、目標を『絶対的安定を得ること』とし、公務員試験に合格するべく勉学に励んだ。そんな静也に引っ張られながら理沙も頑張った。
この頃から理沙は、静也と一緒に人生を歩むことを意識していた。
・・・
と、ここで冷麺をつかんだ理沙の箸が止まる。
――そういえば静也から、ちゃんとしたプロポーズはなかった気がする……。
「文鳥だって、オスが求愛のさえずりをするのにね」
箸を止めた理沙は冷麺をくわえたまま、鳥籠の文鳥にそろりと目をやる。
それでも……高校卒業前に静也が遠慮気に言ってきたこと……あれがプロポーズになるのかしら――
とりあえず冷麺をすすり、さらに過去を引っ張り出す。
・・・
「あのさ……この際、一緒に住んだほうが安上がり……かな」
高校卒業を控え、部屋探しをしている時、静也は理沙から微妙に視線をずらし、口を開いた。
これが初めて聞いた「一緒になりたい」という静也の『求愛のさえずり』だったかもしれない。
「え……」
「まだ、早いかな?」
「そうだね……」
「やっぱ成人になってからか?」
「そのほうがいいかもしれないね」
「じゃ、それで」
・・・
確か、こんな淡々とした会話で終わってしまった。
静也に熱烈を期待するのは無理な注文だが、正直、静也の『求愛のさえずり』はしょぼかった。
まさに今の『ぷっくり』の拙いさえずりと同レベル。理沙もいずれは一緒になりたいと考えていたけど、もうちょい熱さが欲しかった。
それからの静也は心置きなく、将来について話を振ってくるようになり――
誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントもバレンタインデーのチョコもいらないと言い、そういったことにお金を遣わず、貯金してほしいと提案をしてきたりした。
貯金に励むよりは、最初から一緒に住んだほうが無駄が省けたはずなのだけど――
「未成年が結婚する場合、保護者の同意が必要でしょ? 私たちみたいな孤児の場合は、保護者の代わりとなる法定代理人がやっぱ必要なのかな?」
そんな質問を静也にしたこともあったが、静也もその辺の法律は詳しくは知らなかったようだ。
自分たちは勤労、納税という義務を果たしているのに権利が制限されている……。
「何で成人は20歳なんだろうな……施設だって基本18歳で追い出される。要するに18歳で自立しろってことだろ。なのに矛盾しているよな。権利を制限するなら、親を頼れない施設の子どもは、18歳ではなく20歳まで保護するべきだよな」
と静也もぼやいていた。
一緒に住むなら、やはり結婚だ。二人の住所が職場に知られるわけだから、同棲はまずい。
とはいえ、二人はお互いの部屋をよく行き来し、半分同棲していたようなものだったが。
そして理沙が20歳になった時、先に成人に達していた静也は「じゃあ、これ」と言って婚姻届を差し出してきた。
理沙は喜んでサインしたものの、静也からのホンチャンの『求愛のさえずり』は結局「じゃあ、これ」というそっけないものだった。
結婚式もなしにし、ウエディングドレスを借りて記念写真だけ撮ることにした。理沙は花嫁姿を静也に見てもらうだけで充分だった。披露宴なんてとんでもない。人に対し壁を作り、距離を置く生き方をしていた二人にとって、他者から注目を浴びるのは苦手どころか苦痛ですらあった。
経済的理由から新婚旅行もやめた。結婚指輪もなしだ。
そんなことにお金をかけるより、日常を豊かに暮らしたい。
それぞれの親が遺してくれた遺産にも手をつけたくなかった。これはどうしても金銭的に困った時のため最後の手段として頼ることに決めていた。
こうして特別なことは何もできなかったけど、静也との縁を守りながら地道に歩んできた。
静也は「好きだ」という言葉はついに口にしなかったが、いつも理沙のために具体的に動いてくれた。これが静也なりの『求愛のさえずり』だったのだ。
その時、再び母の言葉が甦る――『将来の道を切り開くために勉強するの』
そうだ、静也と一緒に勉強したからこそ、今のこの生活があるのだ。
また、母はこうも言っていたっけ――『いろいろ選べるって幸せなことなんだよ』
きっと母だって迷ったはず。でも母は母なりの道を選んだ。
仕事を辞めたことを残念に思ったこともあっただろう。家の仕事が物足りなくなったり、不満を抱えたこともあっただろう。それでも母は幸せだったと信じたい。
選択するって迷うけど……それが生きるってことなのかもしれない。
ドラマでは、主人公夫婦が離婚の危機を乗り越え、切れかかったこの縁をもう一度修復し、結び直そうという話に落ち着き、ハッピーエンドを迎えていた。
現実にはそう簡単にいかないだろうけど、それでも――自分は何を一番求めていて、何をあきらめることができるのか、それが分かっていれば悔いのない生き方ができるはず。
とりあえず育休をとって復職する予定ではいるが、問題が起きれば、その時に考えて対処すればいいだけのこと。
「育児のことも生まれてもいないうちから、あれこれ思い悩むのも良くないよね」
冷麺を食べ終えた理沙はテレビとDVDを消した。
・・・
陽が傾き、黄昏色を帯びてきた。
涼風が時折吹き、木の葉がカサカサと乾いた音を鳴らす。
理沙は近所の商店街へ買い物に出た。大きなお腹を抱え、ゆっくり歩く。いくつかの店を通り過ぎた時、花屋の前で菊を見かけ、ふと昨夜、静也から教えてもらったことを思い出す。
「そういえば……今日は重陽(ちょうよう)だっけ」
9月9日は重陽の節句。別名『菊の節句』または『栗の節句』。
昔から、中国では『奇数』は縁起が良い『陽数』といわれている。
9は陽数の中でも一番大きな数字であり、その9が重なる日ということで、9月9日は『重陽』と呼ばれ、特別な日とされた。
古代中国では「菊は邪気を払い長生きする効能がある薬」と考えられていたため、おめでたい重陽の日は菊を使って長寿を祈っていた。
その重陽の風習と菊の効能が日本に伝わった平安時代、宮中では菊の花を浮かべた『菊酒』を飲み交わすようになり、奈良時代では菊を観賞する宴が催されたという。
さらに江戸時代に入ると『桃の節句』と同じく雛人形が飾られるようになり、菊に長寿を願う『菊の節句』となった。
また時期的に、栗ご飯でお祝いしていた秋の収穫祭と重なったため『栗の節句』とも呼ばれている。
「よし、菊を使っておひたしでも作るか」
スーパーマーケットに入った理沙は今夜の晩ご飯の食材の中に『食用の菊の花びら』を加えた。
「そうそう『栗の節句』でもあったのよね」
栗といえば、理沙の頭に思い浮かぶのは栗羊羹に栗饅頭、マロングラッセ、モンブラン、マロン風味のアイスクリーム――お菓子のオンパレード。
さっそく和菓子店と洋菓子店に立ち寄り、栗のお菓子をあれこれ品定め。
「迷うなあ。やっぱ選ぶって難しい~」
どれも捨てがたく、結局ちょっと奮発して、栗饅頭とモンブランとアイスクリームを買うことにする。捨てがたい時はひとまず全部手に入れてみるのだ。
ドラッグストアでは、菊湯の入浴剤を手に入れた。菊には精油成分があり、血行を促進し、保温効果も高く、夏の疲れをほぐす薬湯とされている。
いまひとつ地味であまり知られていない『重陽の節句』だけど、理沙は『栗菓子の日』としてしっかりインプットする。
そう、3月3日の『桃の節句』は女の子のための、5月5日の『端午の節句』は男の子のための、そしてこの9月9日の『重陽の節句』は大人のための行事と言っていいだろう。
陽が落ち、空がすっかり暗くなった頃、静也が帰ってきた。
「おかえりなさい」
理沙はキッチンから声をかける。
「ただいま」
くたびれた様子の静也はため息交じりに応える。
「お風呂、菊湯にしておいたよ」
「そうか、今日は重陽だもんな」
静也の声が少し元気になる。夜は幾分涼しくなったとはいえ、静也の体は汗まみれだ。早くサッパリしたいだろう。
静也がお風呂に入っている間、理沙は晩ご飯の支度をする。
今日の夕食はキャベツたっぷり豚肉の生姜焼きに冷や奴、ワカメと胡瓜の酢の物、黄菊の花びらのおひたしだ。
菊の花のおひたしは――黄菊は苦味が強いので、苦みが出る内側の短い花びらは使わないようにする。鍋に湯を沸かし、色を良くするために酢を加え、茹で過ぎないよう、しんなりしたらすぐザルに空け、水を切る。
味付けはポン酢で。大根おろしをかけるとおいしい。
夕飯の準備が整い、あとはご飯が炊き上がるのを待つだけとなった時、理沙は太ももの付け根が痒くなってきたことに気づいた。どうやら、蚊に刺されてしまったようで、その部分がぷっくりと桃色に大きく盛り上がっている。
「んも~いつの間に……」
居間にある小物入れからメンタムを取り、食卓の椅子に腰かけ、ふんわりしたマタニティドレスの裾をめくったまま、刺されたところにメンタムを塗る。お腹が大きいので、そういった動作も一苦労だ。
そこへ入浴を終えた静也が入ってきた!
理沙のあられもない姿に、思わず静也は見入ってしまう。その眼にクローズアップされたのは丸出しとなったふっくらした白い太ももと、付け根辺りにできたぷっくりとした桃色の虫刺され跡。
突然、静也はエッチな気分に誘われる。理沙の妊娠が分かってから、そういったことからはずっとご無沙汰であった。
ふっくら、ぷっくり、そして己の下腹部はもっこり!
……って夕飯前だというのにオレは一体何を考えているんだっ――静也は頭を振りつつもハッとする。
ふっくら・ぷっくり、もっこり……おっ、ちょっと韻を踏んでいる……。
「ご飯にしよう」
理沙の声で、お腹の底から這い上がってくる甘酸っぱいウズウズした気持ちを抑え込み理性を取り戻す。すでに白い太ももはマタニティドレスに隠れていた。
『夫婦生活』は、理沙の出産が済み、産後も最低一か月はガマン。
しかし産後は――理沙は育児で疲れ果て、そんなどころではなくなることをまだ知らなかったが、それはまた別の話。
「いただきます」
食卓に着いた静也はさっそく発泡酒の缶のプルトックを開ける。9月になって湯上りの発泡酒は最高だ。口の中で泡が躍る。のどごしもスッキリ。
発泡酒をおいしそうに飲む静也を、妊娠中の理沙はうらめしそうに見やっていた。
出産が済んでも断乳までアルコールは基本的にガマンである。その分、デザートのマロンアイスクリームで口を満足させていたようだ。
少し開けた窓からは夏の終わりを告げるかのように心地よい涼風が入ってくる。
旧暦に当たる本来の重陽は1カ月ほど先だけど、まずは新暦の重陽を祝し、二人はお互いの健康と長寿を願った。
晩ご飯を食べ終え、後片付けをしているうちに、あっという間に就寝時間。本当なら秋の夜長を読書でもして楽しみたいところだが、明日も仕事だ。静也は白文鳥たちに「おやすみ」を言いに、暗い廊下に置いてある鳥籠へそっと近づく。
静也にとっても、文鳥は心を和ませてくれるかわいいペット……いや、四条家の新しい家族だ。
『ふっくら』と『ぷっくり』は相変わらず白いお腹をもっこりさせて、紅色のくちばしを背にうずめ、仲良く並んで眠りに就いていた。
その時、静也はハッとする。
ふっくら・ぷっくり、もっこり――白文鳥たちもちょっとだけ韻を踏んでいるではないか!
と、ここで先ほどの、ふっくらとした理沙の白い太ももに、ぷっくりした桃色の虫刺され跡が思い出され、思わず『もっこり』してしまい――
ふっくら・ぷっくり、もっこり! とちょっとだけ韻を踏みながら悶々と重陽の夜を過ごすのだった。
理沙への求愛のさえずりはいまいちだった静也だけど、もっこりだけは一人前……。
※児童福祉法の改正について……児童養護施設に残ることができる年齢を18歳から20歳に引き上げるなど、児童福祉法対象年齢を20歳にする案が提出され、平成29年度より、原則18歳で施設入所措置を解除されるとしながら、支援を継続して行うことが適当とされた場合には22歳年度末まで受けられるようになった。その一方で成人年齢は18歳に引き下げられ、2022年に施行される見通しになるようだ。
※次話
※ほか栗の節句関連物語はこちら↓
※短編連作小説「これも何かの縁」目次はこちら↓