これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

それぞれの道⑥沢田文雄―世間のランクと縁を切る

連作短編物語「これ縁」、コンプレックスまみれだったオタク漫画家・沢田文雄の最終話。以下本文。

 漫画家・沢田文雄は近所のファミリーレストランで担当編集者の浅野仁と打ち合わせをしていた。

 時はクリスマスシーズン。
 店内もクリスマスの飾りつけが施され、幾分華やかな雰囲気な空気を醸し出していた。
 が、この二人にクリスマスは関係ない。頭の中は仕事のことでいっぱいだ。

「今回の話、すごい反響だったよ」
「ありがとうございます」

 上機嫌の浅野に文雄は頭を下げる。
 今号のコミック誌に載った文雄の漫画はついに人気アンケート1位を取った。

 郷田浩をモデルに描いたこの原稿を完成させる前――
 ネーム(漫画の設計図)を書き上げ、担当の浅野に見てもらったのだが、女が殺されるシーンに浅野から注文が入った。

 当初『郷浩志』は、近くにあった木材で発作的に女の頭を殴って殺す、ということになっていた。
 が、浅野は「女の顔を殴ってぐちゃぐちゃにさせたほうがインパクトがある」と言って、そのように直させた。

 浅野は編集者として、いかに読者の目を引き付けるかという視点からそうアドバイスをしたのだろう。
 文雄もそのほうが郷田浩=郷浩志の悪辣性を強調できるとして同意した。

 ――郷浩志に利用され、あげくに殺される冴えない女は、僕自身だ。

 郷浩志に、サンドバックのように殴られて顔を破壊される女。
 そんな女の姿に、文雄は高校時代の自分を重ねていた。

 女は『郷浩志』に人間扱いされてない。
 高校時代の自分も人間扱いされなかった。

 郷田浩を中心に皆から見下され、パシリとして利用され、ストレスのはけ口としてサンドバックにされた。
 そしてグループを抜けるとクラス全体からイジメを受け、心を殺された。
 けど誰もそのことに罪悪感など抱くことなく、自分たちがやったことを簡単に忘れた。

 いや、惨めだったのは高校時代だけではない。
 就活に失敗し全ての企業から「お前はいらない」と社会から弾かれた時も……自殺する勇気があったならば、あの時に自分は死んでいた。

 惨めに殺される女の姿は、かつての沢田文雄の姿だった。

 担当の浅野からOKをもらい、作画作業に取りかかった文雄は何かに取り憑かれたかのようにペンを走らせた。
『郷浩志』につぶされ壊れていく女の顔と、真っ当であることを望む社会につぶされ壊されていく自分がリンクする――沢田文雄が漫画の神様に愛された瞬間でもあった。


 沢田文雄から渡された完成原稿に、浅野編集者は感嘆した。その絵の迫力に身震いした。
 後味のいい話ではないが、この漫画は読者に相当なインパクトを与えるはずだ。
 編集長はじめ、ほかの編集者たちも浅野と同様の反応を示した。

 そしてコミック誌が発売され、読者からも今までにない反響をもらった。ネットの掲示板やSNSでも盛り上がり、今でも話題となっている。
 もちろん「気持ち悪い」「胸糞悪い」「不快だ」「気分が悪い」というようなネガティブな感想も多かったが、それだけ皆の心に響いたということだ。

 浅野編集者の頭の中は沢田文雄作品について、さらに人気を得るためにどうしたらいいか、どうプッシュしていくか、どうアピールし宣伝していくかで一杯だった。
 今回のことで確かな手応えと、編集者としてある種の予感が働いていた。
 ――こいつは化けるかもしれない。

 たくさんの才能を出会えるこの仕事は面白い。自分はそれをプロデュースしていくのだ。生半可な気持ちで作家とつきあいたくない。作家に失礼だ。
 家庭との両立なんて言っていたら、いい仕事はできない。家庭より仕事。自分は『仕事を優先させてくれない今時の結婚』に向かない男だ――そんなことを浅野は思っていた。


「いい反響だ。単行本の売り上げも期待できるよ」
 笑いかける浅野編集者を尻目に、文雄は淡々としていた。

「だといいんですが」
「ん……ノリが悪いなあ。いつも思っているけど、沢田君、感情をあまり表に出さないよね。特に、喜んでいい時とか」

「僕の性格です。手放しで喜ぶと、しっぺ返しが来るような気がして……。そんなに上手く行きっこない、そのうち悪いことが起きるって、必ずどこかで失敗するって」
 文雄は浅野から微妙に視線を外し、そう応えた。

「それは随分と慎重というか、マイナス思考だな。まあ、沢田君とつきあっていて、そういうネガティブなとこは感じていたけど」
「子どもの時から、あまり人に認められた経験なくて……どっちかというとバカにされてきたほうで……成功体験が少ないんです」

「もしかして失敗した時に気落ちしないよう予防線張っているところある? だからあまり期待しないようにしているとか」
「あ、はい、そうです」

「いわゆる逃げ道を作っているわけだ」
「ええ、そうかもしれません……」
 文雄は視線を落とし首をすくめる。

「いや、責めているんじゃないよ。コンプレックスが強い人間ほどそうかもな。それが創作への原動力になっているならいいことだ。むしろプラスに捉えるべきだね。その劣等感が、沢田君の漫画力や作家性を育ててきたんだと思うよ」
「はい」

 沢田文雄は薄く笑みを浮かべ、暗黒だった高校時代、そして就活に失敗したことに初めて感謝する。
 あの時代があったからこそ今があると、ようやく思えるようになった。

 今回の作品では、容赦なく郷田浩を料理することができた。
 もしも郷田浩が高校時代もしくはあの同窓会の時に、文雄に対して少しでも尊重の意を示したり、あるいは思いやりを見せていれば、あそこまで描けなかった。
 ネタにするとしても大きく話を変え、本人に読まれても分からないように配慮し、物語の内容ももっと救いのあるものにしたはずだ。
 けれど、それでは作品としては中途半端な出来になっただろう。あの作品に自分自身の黒さを全てぶち込んだ。

 ――ま、僕の漫画が載っている青年コミック誌なんて、郷田は読まない可能性も高いし、読んだとしても僕が漫画家であることは知らないから、僕の意趣返しなど気づかない、あるいは僕の作品など気にも留めないかもしれない。

 それにもう……郷田浩は過去の人。どうでもいい人だ。
 郷田浩をここまでネタにしたからには今後、高校の同窓会に出席することもない。そもそも新しい住所・連絡先を誰にも教えていないので、通知が届くこともない。郵便局の転送サービスは一年間だけだ。

 もちろん、ネット上にある元同級生たちが集うSNSに参加していないし、する気もない。
 高校時代とは完全に縁を切った。

 ただ一つだけ、気づいたことがある。
 クラスの中でランク付けがされ、自分を含め下層の者たちは劣等感に苛まれていたが……郷田たちも劣等感に苦しんでいたかもしれないと。

 自分や郷田が行っていた高校は偏差値が低く、ランクがかなり低い学校だった。世間からそう見られていた。
 つまり郷田も世間ではランクが低いとされていたのだ。
 だからその鬱憤を、文雄のような人間を見下すことで晴らし、仮初の優越感を得ていたのかもしれない。

 下層の中でさらなるランク付けをし、自分より下がいることを確認し、何とか自尊心を保つ。
 人間はランク付けが好きな生き物で、他者が作ったランクが気になる生き物なのだ。

 思えば、先の同窓会で郷田は文雄が無職だと知った時、安心した様子を見せていた。文雄よりはマシだと自分を慰めていたのだろう。

 ――ランクを気にせず生きていけたら、どんなにラクだろう……。

 いや、漫画家の世界にだってランクは存在する。
 どれくらい売れているか、人気が取れているか、シンプルで納得のいくランク付けだ。売れなきゃ見捨てられる。
 生きている限り、ランク付け=競争から完全に逃れることはできない。

 けれど漫画の世界にいる自分は、その世界での下層にいたとしても、他者を見下して優越感を得るような歪んだ劣等感を持たずに済んでいる。
 売れている漫画家を見て、憧れと悔しさをバネにするだけだ。

 ――漫画で生きていく。それが僕の道。

 将来どうなるか分からない。全く仕事がなくなり、漫画では食べていけなくなるかもしれない。貧しく惨めな老後が待っている可能性も大だ。
 でも、その時はその時。人間、最終的には皆、死ぬのだ。
 結果は等しく皆同じ。そこに勝ち負けもランクも存在しない。

 2月には小林家を出て、新しい部屋での生活が始まる。
 普通の暮らしをしている世間の価値観に沿った正しい人たちから離れる。真っ当な人たちの視線と縁を切り、自由と縁を結ぶ。

 浅野仁と打ち合わせをしながら、沢田文雄はかつてないほどの解放感と心地よい孤独感を味わっていた。