これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

真夏・孤独と幸福の狭間で―育児がこんなに辛いなんて

久々、四条家の話。

たぶん世間一般の価値観でみれば四条夫妻の生き方は『幸せ』にみえる。そんなオーソドックスな幸せ像に対して、第二部『これ縁』では家庭や子を持たない生き方をするだろうキャラたち=小林和江、福田みすず、沢田文雄、長山春香の物語に重きを置いている。彼らとの対比キャラとして四条夫妻は存在しているのかもしれない。第一部では主人公だった四条夫妻だったけれど。

以下、本文。

「あ、今日は生ゴミの日だ。早く捨ててこないと。んも~すっかり忘れていた」
 仕事へ行く夫の静也を見送った後、理沙は部屋のカレンダーを見て、思わず己のオデコを叩く。

 本来ゴミ捨ては静也の担当なのだが、今日は二人とも寝坊をしてしまい、バタバタとしていたものだから、静也のほうも忘れてしまったようだ。キッチンにたまっている生ゴミを処理した。
 鼻を襲う腐臭に理沙は顔をしかめる。夏はすぐにモノが腐る。イヤな季節だ。

 息子の涼也はさっき起きたばかり。後追いの時期に入っていて、理沙の姿が見えないとすぐ泣く。それにあちこち部屋をハイハイして、いろんなイタズラをし、何でもかんでも口に入れるから目も離せない。

 仕方ない――涼也を抱っこ紐で密着させ、ゴミ袋を持って、部屋の外に出た。朝からモワっとした熱気が理沙と涼也を包む。

 このねばりつくような暑さにも辟易だが、もうひとつ、理沙の心を疲れさせるのが近所の人たちとのつきあいだ。

 涼也が生まれ、連れているのを見られてから、同じマンションの人によく声をかけられるようになった。
 赤ちゃんを連れた新米ママは人を吸い寄せるらしい。

 それが何となくうざい。
 挨拶ひとつが億劫に感じられる。

 たぶんそれは、人に対する警戒心が強い所為かもしれない。ずっと他者に対しバリアを張り続けてきた理沙の性分だ。その上、涼也の育児で疲れていて余裕が持てない。

 ゴミ捨て場では、近所のおしゃべり好きな主婦たちがたむろし、結構長々と居座ることもあったりする。そこにぶつかると、いろいろと話しかけられ、すぐに立ち去るのが難しくなる。

 が、男である静也だったら短い挨拶で済む。相手も話題を振らない。だからゴミ捨ては静也の仕事となっているのだが。

 ――外は暑いし、こんな日まで長々とおしゃべりしていないだろう……。
 生ゴミの臭いに急かされ、理沙は周囲を伺いながらエントランスに向かう。

 ――誰にも会いませんように。
 だが、理沙の願いは空しく、ゴミを捨てて戻ろうとしたところで、同じフロアーに住む主婦二人組に捉まってしまった。

「あら、四条さん、おはようございます」
「あ、おはようございます」

 舌打ちしそうになるのを堪え、理沙は口角を上げ、無理に笑顔を作る。

「まあ、赤ちゃん、大きくなったわねえ」

 この頃の涼也は、つかまり立ちも始まり、ハイハイのスピードがアップした。手を振ったりもする。

「ええ、おかげ様で……」

 主婦二人組はゴミを手にしながら、そのまま立ち話を始めた。

「ところで、上の階の遠藤さんだけど……」
「ああ、ちょっと気になるわよね」

 理沙には関係のなさそうな話題なので、軽く会釈をして離れようとしたら、主婦たちは理沙にも話を振ってきた。

「ねえ、遠藤さんってご存知? うちは遠藤さんの真下だからよく聞こえるんだけど、子どもの泣き声がすごくてね。それも長い時間、ずっと泣きわめいていて、この前、ちょっと異常な感じがしたのよ」

「……」
 近所づきあいしていない理沙は、遠藤さんのことは知らないし、この30代後半くらいに見える二人組の主婦たちが何という名前なのかも定かではない。どう返事していいか分からず黙っていると、もう一人の主婦が眉をひそめた。

「もしかして虐待かも」
「ニュースでもやっていたけど、こういう場合、児童相談所に連絡したほうがいいのかしら」
「ちょっとしにくいよね」
「でも何か起きてからじゃ遅いし」
「そうね……児童相談所が引き取って面倒みてくれたほうが救われる場合あるわよね」

 そんな主婦たちの話に、理沙はつい口を挟んでしまった。
「親に戻せない場合、最終的に面倒をみるのは児童養護施設ですよ。児童相談所はあくまでも一時預かりです」

 主婦らは顔を見合わせた。
児童相談所と養護施設って違うの?」

「え……ええ、まあ」
 しまった。余計なことは言わずに、さっさと退散すれば良かった。理沙は微妙に二人から視線を逸らす。

「へえ、若いのによく知っているわね」
 主婦の一人が感心したように応える。

 この場合、若いかどうかって関係ないのにとんちんかんな褒め言葉だな、と思いつつ、理沙は形だけ微笑み、謙遜した。

「いえ、たまたまです。……どっかの報道番組で聞いたことがあって」
 彼女たちに自分が児童養護施設出身だと教える必要はない。

 その時、涼也がぐずり出した。
 こんなところで泣かれたらたまらない。理沙は背中をポンポンと軽く叩く。

「目が離せない時期で大変ね」
「ええ……」

 ふと主婦たちを見やると、口許は微笑んでいるのに主婦たちの目が笑っていない……。
 そんな風に見えた理沙には、主婦たちからこう問われている気がした。

 ――ちゃんと育てている?
 ――お宅の部屋からも赤ちゃんの泣き声がよく聞こえるんだけど、まさか虐待してないよね?

 理沙は主婦たちの視線から逃れるように「失礼します」と足早にその場から離れ、部屋に戻った。

 ――ああ、うざい、うざい。放っておいてよ。

 何かイライラする。 
 それでもドアを閉め、鍵をかけると、いくらか気持ちが鎮まった。

「そうだ、涼也のご飯、やらなくちゃ」
 涼也を抱いたまま、キッチンで手早く離乳食を作る。
 が、それもつかの間、涼也が本格的に泣き出した。

 さっきのイライラ気分が戻ってきて、思わず舌打ちしてしまう。
 涼也を下ろして、まずはオムツを確認。
 できものができていないか、熱がないかも確認。

「お腹、空いたのかな?」
 とりあえず席に座らせ、離乳食を与えてみようとしたけど、涼也は顔を左右に振り、手足をバタバタさせてただただ泣きわめくだけ。
 再び涼也を抱き上げあやしてみるが、効果はない。

 ――いやだ、どうしよう。虐待しているって思われるかも。

 鼓膜に突き刺さるような泣き声だ。近所中に聞こえるのでは、と思わせるほどに空気を震わせる。
 朝だというのにさわやかさの欠片もなく、過酷な猛暑の気配を漂わせ、不快指数はマックスだった。涼也の泣き声がそれに輪をかける。
 頭痛と共に吐き気がしてきて、抱いていた涼也を床に降ろす。 涼也の声になぶられ続け、心臓がバクバクしてくる。

 ――そうか、この蒸し暑さに涼也も参っているのかも。

 真夏の陽光が窓を白く反射させ、部屋の気温をぐんぐん上昇させている。
 とりあえず涼也が快適に過ごせるようにと窓とカーテンを閉め、エアコンを点けた。

 ――これ以上は勘弁して。

 相変わらず涼也は泣いていた。
 理沙は言いようのない孤独感に陥る。

 孤独って……誰もいなくて寒くて冷たくて暗くて乾き切っていてシンと静か……冬の夜……そんなイメージだった。でも違った。
『孤独』は場を選ばず突然襲ってくる。朝、真夏の太陽が眩しく輝く明るい部屋で。蒸暑く、ぎゃあぎゃあと耳をつんざくような声が充満する中で。かわいい赤ちゃんの傍で。

 泣きわめく涼也を布団の上に置き、その横で理沙は耳を塞ぎ、うずくまった。

 どのくらい時間が経ったのだろうか。
 エアコンのおかげで部屋がだいぶ涼しくなり、閉め切った窓の外から伝わってくるオブラートに包まれたような蝉の声に理沙は我に返る。

 涼也は泣き疲れたのか、眠ってしまったようだ。そういえば昨夜は何度も夜泣きをしていたし、睡眠が足りていなかったのかもしれない。

 もちろん理沙も寝不足だ。
 涼也の世話と家事だけで一日が終わり、毎日変わり映えのない単純作業の繰り返しに心も体も疲弊し切っていた。

 ――少し休もう。

 理沙は立ち上がる気力もなく床を這いながら、文鳥の『ふっくら』と『ぷっくり』のところへ行く。
 籠の中に手を入れると『ふっくら』が乗ってきた。『ぷっくり』も乗ろうとするが、『ふっくら』だけでいっぱい。
『ぷっくり』は止まり木の上をあちこちとチョコチョコ移動し、隙あらば手に乗ろうと様子を伺う。
 こうしていつも二羽で理沙の手を奪い合うのだ。

「かわいい~」
 心がとろける。

 理沙の手に乗っている『ふっくら』はリラックスモードに入り、お腹をもっこりさせて下ろす。その『ふっくら』の体温が理沙の手にも伝わり、心がさらにとろけまくる。

 気分がだいぶ落ち着いてきた。

 赤ちゃんは泣くのが仕事だ。異常がなければ、そんなに気にすることはない。
 近所の人の目も無視しよう。虐待を疑われて通報されたら、その時はその時。

 ――よし、涼也がおとなしいうちに家事をやってしまおう……。
『ふっくら』を止まり木に戻し、手を鳥籠から引っ込め、立ち上がる。

 洗濯や掃除をしているうちにお昼になり、涼也がギャン泣きしたことなど静也にメールで報告しておく。いつもと変わりなくても、ほんの些細なことでも子どものことはできるだけ夫婦で共有しておきたい。

 すると、さっそく静也から「できるだけ早く帰る」と返事があった。
 その言葉だけで理沙は救われる。

 さほど食欲がわかないので、お昼は冷蔵庫で冷やしておいたバナナやチーズを食べて凌ぐ。どっちみち、ゆっくり食べている暇はないから、簡単に済ませるのがちょうどいい。

 そこへまた涼也の泣き声。
 様子を見に行かなければ。

 ――涼也に振り回される生活、一体いつまで続くんだろう。
 理沙の口からため息が漏れる。

 昼間に寝かせ過ぎると、夜、なかなか寝てくれない。どっちみち、もう起こしたほうがいい。
 こうしてヘトヘトになりながらも涼也の相手をしつつ、合間を縫って家事をこなすしかなかった。

 そうこうしているうちに、ようやく真夏の太陽が沈み、残照がまだ空を輝かせ、周りの家々や木々が色を失わずにいる頃、静也が約束通り早く帰ってきてくれた。
 ようやくここで一息つける。

 静也に涼也の世話を頼み、風呂に入れてもらっている間、理沙は夕飯の支度に取りかかった。
 今日の夕食は夏野菜のチキンカレーとサラダだ。
 カレーには玉ねぎをベースにトマトと茄子とパプリカを入れている。

 このメニューがラクなので、つい頻繁に登場させてしまうけど、カレー好きな静也は喜んで食べてくれるので助かっている。

 忙しいと時の流れはあっという間だ。
 風呂から上がった涼也に離乳食を食べさせ、静也に何とか寝かしつけてもらっている隙に、理沙も手早くシャワーを浴びる。

 明るかったはずの空はすっかり夜の帳を下ろしていた。
 やっと食卓に着くことができ、冷えた麦茶を片手にカレーを頬張りながら、理沙は静也に『今日の涼也の様子』を話す。
 午前中の涼也はご機嫌ななめだったけど、午後はつかまり立ちをしたり、内容は分からないだろうけれど理沙と一緒に絵本を読んだりして過ごした。

「ま、いずれ、ギャン泣きもなくなるだろ」
 静也はカレーをかき込みながら理沙を慰める。
「オムツだって取れていって、トイレや食べることも一人でできるようになっていく。それまでの辛抱だ」

「まあ……ね」
 理沙はため息交じりに応えた。

 成長したらしたで、また別の問題がいろいろと出てくるのだろう。『魔の2歳児』とも呼ばれるイヤイヤ期もあるし、ニュースで見聞きするイジメ問題や不登校、引き籠りに少年犯罪も気になる今日この頃だ。
 様々な情報に接していると希望よりも不安をかきたてられてしまう。

 本当はママ友を作ったりして、そういう人たちとも悩みを共有できればいいんだろうけれど……どうしても警戒心と面倒臭さのほうが先に立ってしまう。ネットやテレビで目にする『ママ友の世界』はイジメもあるそうだし……自分だけではなく子どもにも害が及ぶかも……と思うと、そんな恐ろしいところへ子どもを連れて入っていけない。

 子どもの出来の較べっこ、お互い心の中でマウンティング、かえって精神的に疲れそう。ママ同士のつきあいに、ネガティブなイメージしか持てなかった。

「ま、休日になればオレも涼也につきあえるから。お盆休みもあるし、その前には『山の日』もあるしな」
「ああ、8月11日の祝日ね」

 山の日は、平成26年に制定、平成28年に施行され「山の恩恵に感謝する祝日」となった。
 が、明確な由来はないようだ。

「7月は『海の日』があるから、8月に『山の日』も作ったんだろうな」
「8月11日にしたのは何でかな?」

「八の字が山に見えるのと、11は樹が林立しているように見えるからって聞いたなあ」
「へえ」

 何にせよ、理沙としては静也が傍にいてくれる休日が増えるのはありがたい。
 夫がこうして育児に協力的であることに感謝すると同時に、結婚するなら『家庭的な人』というのは男にも求められる要素だなと今にして思う。
 もし育児を夫婦で共有できなかったら、自分は耐えられない。孤独感で一杯になるだろう。

 家族ができれば孤独から脱することができると思っていたのに……『孤独』というのはそんな生易しいものではないようだ。

 そこでふと児童養護施設のことが頭を過る。
 そう、あそこには親の育児放棄や虐待で保護された子どもたちがいた。

 子どもを持つ前は、自分の子を虐待をする親を理解できず、絶対悪とすら思っていたけど……こんなに大変なことを、誰にも助けてもらえずに孤独の中で我慢していたとしたら、心を壊してしまい、結果、育児放棄や虐待をしてしまう人もいるかもしれない……。
 今朝、主婦たちのウワサになっていた遠藤さんの話が甦る。

 ――育児がこんなに孤独で辛いものだったなんて……。

 明日もまた同じことの繰り返し。涼也のオムツや食事の世話と後片付けで明け暮れるのだろう。
 そんなことを考えてしまい、理沙は小さく嘆息するのだった。


 翌日。
 相変わらず塗り込められたような湿気で空気が重く、不快な暑さだった。

 が、そんな澱んだ空気を蹴散らすかのように涼也は思いがけないプレゼントをしてくれた。
 理沙の後追いをしながら「んま~……ま~」と呼んだのだ。

 嗚呼、この感動をどう表現すればいいのだろうかっ。

 昨夜『明日もまた同じことの繰り返し』と育児の辛さを嘆いたことなどふっ飛んでしまった。
 同じことの繰り返しだなんてとんでもない。涼也は確実に成長している。

「ああ、そうだ、静也に報告……」
 興奮覚め止まぬ中、お昼になるのを待ちかねた理沙は「涼也がママと呼んだ」と静也にメール連絡をし、帰りにマグロの中トロのお刺身と缶ビールを買うようにお願いしておいた。
 今日は祝杯を挙げねば。中トロは二人の、特に理沙の大好物である。静也からもさっそく「了解」と返事がきた。

 バタバタと忙しなく過ごしているうちにあっという間に夕方となり――
 陽は沈んだものの辺りはまだ明るく、未だ蝉の鳴き声が降りしきる中、缶ビールと刺身の入った買い物袋を手に静也が帰宅した。

 静也は買い物袋を理沙に手渡すと、さっそく涼也のところへ駆け寄り、涼也の耳元で「パパ」という言葉を繰り返しささやいていた。涼也に「パパ」と呼ばせたいのだろうけど、涼也はむずかるだけで、助けを求めるように「マンマ~」と理沙に顔を向ける。

「もしや……うざがっている?」
「ま……パパもそのうち言えるようになるって」

 理沙は、凹み気味の静也を慰めるものの、つい頬がニヤついてしまう。
 そりゃあ静也よりもずっと長い時間、涼也の世話をしているのだから、これくらいの役得はあって当然だ。

 いつものように静也に涼也をお風呂に入れてもらい、離乳食を食べさせ、寝かしつけ――その夜は待ちに待った中トロの刺身を広げ、キンと冷やした缶ビールで乾杯した。
 刺身のほか、食卓にはポテトサラダにプチトマト、薬味たっぷりの冷や奴、枝豆が並んでいる。

「カーッ、サイコ~」
 断乳した理沙は心置きなく缶ビールを口にする。喉への心地良い刺激がたまらない。シュワっと弾ける泡にテンションが上がる。

「さすがにトロは旨いよなあ」
 静也もマグロの刺身に舌鼓を打つ。まさにお口の中がトロけそう。山葵と甘味のある生醤油がさらにトロの美味しさを引き立てる。

 マグロのトロなんてかなりの贅沢だけど……どこかに遊びに出かけたり旅行することもなく、クルマやブランド品を持つこともなく、質素に暮らしているほうだ。
 理沙は服や化粧品にもお金をかけず、紫外線にだけ気をつけ、お手入れは安い乳液で済ませている。
 静也もこれといった趣味がないし、友だちとのつきあいもないので、お小遣いは余らせてしまい、貯金にまわしている。

 施設で育ったことも影響してか倹約家の静也と理沙であるが、夫婦二人の楽しみはこうしたおいしい食事をすることなので、ここぞと言う時はそれにお金をかける。

「今度は『パパ』って呼べたら、お祝いしようね」
「じゃあ、その時は牛ステーキな」
「OK」

 涼也は孤独を運んできたり、喜びを運んできたり、理沙にいろんな思いを贈ってくれる。辛いこともあるけれど総じて幸せだ。
 お盆になったら、涼也の成長した姿を見てもらうべく、ここにまた家族と先祖の霊を招き入れよう。

 ――その時には『パパ』って呼べているといいんだけどねえ。
 理沙はトロを堪能している静也を見やり、ほろ酔い気分でニカ~っと上から目線の笑みを放つのだった。