中秋の黒い同窓会―元イジメっ子VS元イジメられっ子
オタク漫画家・沢田文雄、ついに高校時代のイジメっ子と対面。イジメッ子の正体はなんと……。沢田文雄が劣等感から脱却するきっかけとなるお話。
以下、本文。
昼間は未だ夏の置き土産のような暑さに覆われつつも、夕方からは秋を感じさせてくれる9月中旬。
沢田文雄は高校時代の同窓会に来ていた。
文雄の月刊誌連載漫画は人気中位を保ち、そこそこ順調だった。
来月10月に発売される号で物語に一段落つく。そして11月は休み、12月発売号から第二部としてスタートする。大増ページということで56ページもらった。
そのため新たな話を考えてなくてはならなかったのだが、今後の展開について、おおまかなあらすじを作ってみたものの、担当の浅野編集者からは「今までと変わり映えしない。このままじゃ飽きられる」「話が素直すぎる。インパクトが足りない。勢いが欲しい」とボツを食らってしまった。
一から話を作り直しだ。
今までは、主人公の周りで何かしらの小さな事件が起き、それを解決していくという内容で、基本ハッピーエンドの読み切り型のストーリーで話を進めてきた。
が、浅野編集者は言うには「ハッピーエンドにこだわらなくていい」とのことで「今までと違う新しい何かを感じさせてほしい」という難しい注文をつけてきた。
確かに今までと同じような話を作っても、これ以上、人気も伸びるとも思えず、浅野が危惧しているように早々に飽きられ、打ち切りを食らう可能性が高い。
せっかく56ページももらったのだ。今までになかったドラマ性をぶち込んでみたい。
だが、具体的にどういう話にするかとなると、何も思い浮かばない。
どうしたらいいか悩んでいると、浅野から「人間をもっと観察してみたら」とアドバイスをもらった。
ドラマとは『人間』だ。結局『人間』を描くことに尽きる。
そうだ、人間の善ではなく悪を描いてみるか。
『悪』をテーマにする――これが今までの文雄の漫画にない新しい何かとなるだろう。
しかし、あれこれストーリーを考えるも、いまいち乗れない。文雄は完全に煮詰まっていた。
第二部スタートまで、まだまだ時間があるとはいえ、気が焦る。
その前に第一部最終回の原稿をやらなくてはいけないのだが、やはりその前に第二部の構想を起てておきたい。
第二部がどうなるかで、第一部の原稿の風合いも変わってくる。第二部につながる何かを第一部最終回で暗示させておきたい。
すでに第一部最終回のネームは浅野にOKをもらっているが、もっと良くできるのであれば、それに越したことはない。
「とりあえず人間観察でもしてネタを拾ってみるかあ……」
とは言っても、文雄とつきあいのある人間はほぼ漫画関係者ばかりで偏っていた。
そんなところに高校の同窓会の案内が郵便局から転送されてきた。
同窓会の通知は以前に住んでいた住所が記載されていたが、こちらに引っ越した時、とりあえず転送届を出しておいたのだ。
高校時代の関係者とは切れたままで、一切のつきあいはない。同窓会の通知が着ても、今までは不参加で通していた。
――出席してみようか。
何かネタが見つかるかもしれない……。
同窓会の通知に妙な縁を感じながら、文雄は痛かった過去を思う。
オタクだった文雄は、高校二年の時『普通の人たち』=クラスメイトらからイジメを受け、自尊心を傷つけられた。
まさに暗黒時代だった。
そんな『普通の人たち』が憧れていたのは、コミュニケーション能力が高く、華やかで外見も良く、おしゃれで友だちも多くて、モテモテな人、いわゆるカーストの上位にいた人たちだった。
が、そんな彼らも30代半ばとなり、現在はどうしているんだろう? どんな思考をし、今は何に価値を見出しているんだろう?
そんな興味を持ち、同窓会に出てみようかと心が動いた。
もちろん、漫画家となりコミック誌で連載をしている自分のことを知らせたい、作品を宣伝したいというのもある。
当時、オタクをキモいとバカにした彼らは、プロの漫画家も同じように見下すのだろうか? と皮肉めいた気持ちもあった。
ということで――今回初めて、同窓会に参加してみることにしたのだった。
そして同窓会当日。
一次会はイタリアンレストランを貸切り、立食パーティ形式で行われた。
幹事役が挨拶をした後、あちこちで穏やかな談笑の輪が出来上がる。
皆30代半ば。落ち着いた雰囲気で会は進んだ。
が、結局は学生時代に仲が良かった者同士、卒業後もつきあいが続いている者同士がくっつく。
文雄は高校時代、目立つ存在でもなく、これといって仲のいい友だちがいなかったので、独りポツネンとしていた。
今まで度々あったらしい同窓会も欠席していたし、あれから15年ほど経った同級生たちの顔をざっと見回しても、誰が誰だか分からない。見知った顔がいないに等しかった。
同窓会に来ているのは楽しい高校生活を送り、高校時代を懐かしいと思える連中だ。文雄と同じく下位に位置していた者たちはいないのかもしれない。
でも気にしないようにしていた。今日は観察しに来たのだ。ネタを拾いにあちこちで繰り広げられる元同級生たちのおしゃべりに耳を傾ける。けれど、まだこれといった興味が持てる話題はなかった。
――まだ皆、余所行きの顔だな。仮面が剥がれるのは二次会か。
自分の漫画を宣伝する機会もなく、おとなしく時が流れるのを待った。
と、そこへ文雄の肩を後ろからポンと叩く者がいた。
「失礼だけど誰だっけ? 思い出せそうで思い出せないなあ……今まで同窓会に来たことないよな?」
文雄が振り返ると、背が高いイケメン男性が笑顔を見せていた。
「ええ、今回、初めて出席しました。僕、あまり友だちいなかったんで……」
文雄は遠慮気に応え、目の前のイケメン男性の顔を見上げながら、記憶の底に沈殿していたものを引っ張り出す。
この顔――ああそうだ、忘れもしない。二年の時、同じクラスだった……郷田浩だ。
「郷田さんですよね」
「あ、オレのこと知っているんだ」
「そりゃあ、郷田さん、目立ってましたから」
「おいおい、同級生なんだから丁寧語じゃなくていいよ。タメでいこう」
「あ、丁寧語が口癖なんです。気にしないでください」
というか――高校時代、郷田君が僕に丁寧語を強制しましたよね。憶えていないんですか? と問いたかった。
郷田浩は――高校二年の時、文雄が隠れて描いていた漫画のノートをひったくり、女子生徒らに見せ、文雄がオタクであることを暴き「オタクを治してやる」と言ったあの男子生徒だ。
文雄を自分のグループに入れたはいいが、文雄のことを見下し、パシリに使った。対等でいることを許さなかった。
こんなこともあった。「お前、これ何だか知ってる?」とコンドームを投げつけられ「お前、使用したことある? て、あるわけないか。オタクだもんな。やらせてくれる女なんていないもんな」と野卑た笑みを浮かべ、文雄をからかった。
「いつまでも童貞って恥ずかしいよなあ。誰か、女、紹介してやろうか。と言っても、お前に紹介できるのブスだけだけどなあ」
文雄は惨めな思いを抱えつつもヘラヘラ笑って、やり過ごすしかなかった。
万引きを強要されたこともある。ヤンチャだった郷田にしてみればゲーム感覚だったのだろう。
でもさすがに、それだけは断った。
「お前もさ、ちょっとワルになれば、オタクが治るかもよ」「オタクを治してあげようというオレの親切心が分からないのか」郷田はそう言って、文雄を小バカにし哂った。
そして「オタクを治す気ないんなら、オレらと一緒にいる意味ないよな」と文雄をグループから追い出し、その後、二度と口を利いてもらえなかった。
それから、クラス全体のイジメが始まったのだ。
そう、郷田浩こそ、文雄の高校生活を地獄にした元凶だった。
文雄は郷田をじっと見つめた。
すると――
「あ、もしかして……沢田? お前、沢田かあ」
どうやら、郷田も文雄のことを思い出してくれたようである。
「はい、そうです。お久しぶりですね」
「いやあ、久しぶり。懐かしいな、おい」
郷田は邪気のない表情で、文雄の背中を軽く叩いた。
文雄は白けた表情を隠すように下を向く。
「僕のこと憶えてくれていて、光栄です」
言葉ではそう応えながら、文雄は心が軋むのを止められなかった。
――郷田は高校時代、僕に何をしたのか全く憶えていないのか?
いや、郷田にしてみれば、冴えない同級生をちょっとからかっただけのことかもしれない。
よく聞く「いじめられたほうは憶えているが、いじめたほうは忘れている」というヤツだ。
そんな文雄の頭に郷田の声が降ってきた。
「今、何しているんだ?」
郷田の問いに文雄は一瞬、黙り込む。そしてこう応えた。
「就職に失敗しちゃって……」
なぜか漫画家として仕事を始めたことを言えなかった。
今の連載が、これからも上手く行くとは限らない。打ち切りになって、漫画の仕事はこれっきりになるかもしれない。そうしたら、きっと郷田や同級生らは「やっぱりね」「結局は落ちこぼれ」「負け組」と哂い合うだろう……。
そんな警戒感を抱かせるほどにあの高校生活は文雄の心を蝕み、傷を膿ませていた。簡単に治るものではない。
彼らが文雄の漫画を応援してくれるとは思えなかった。口では応援すると言うだろうが、心の底では失敗を望むだろう。
最下層は最下層らしく振る舞うのが無難かもしれない。これ以上、落ちようがない底辺にいるということにしておいたほうがいい。
「へえ……そうか……」
郷田は気の毒そうに文雄を見やる。
が、その眼に優越感が宿るのを文雄は見逃さなかった。
――高校時代、歯牙にもかけなかった僕のような下層に優越感を感じるようになるなんて、郷田さんも相当落ちぶれたな……。
少し愉快にもなり、そんなことを思う自分の底意地悪さに苦笑した。
「郷田さんのお仕事は?」
苦笑を笑顔に変え、郷田の視線を跳ね返すように文雄は訊き返した。
「オレも、あんまりパッとしないな。小さいところで働いているよ」
「でも郷田さん、モテモテだったじゃないですか。ご結婚はもうされているんでしょ」
子どもの話題で盛り上がっている既婚者グループを尻目に、文雄は話題を続けた。
「いや、まだ独身。実はこの間、お見合いしたんだけど、これが酷くてさ……」
と郷田がここまで話した時、幹事役がお開きの挨拶を始めた。
「あ、この続きは二次会で。行くだろ?」
「はい、ぜひ」
ネタの匂いを嗅ぎつけた。文雄にある種の予感が働いた。
そんなわけで郷田浩の見合い相手だった酷い女の話を二次会で聞くことになった。
郷田浩のほか数人のメンバーと一緒だった。文雄以外、高校時代は上位ランクにいて目立っていた連中だ。その中では文雄は完全な異分子だったが、臆せずについていった。
思えば、高校時代なんて人生の中のほんのひと時に過ぎない。あの時、輝いていた彼らの多くはその他大勢の中に埋没していた。
人生は変わっていく。そしてランク・階級というものも。
そもそも世間からみれば、偏差値が低い自分たちの高校は「負け組が行く学校」であり、全員が負け組だったのだ。
二次会の場はこじんまりとした居酒屋だった。
そこで、文雄は郷田らと酒を酌み交わした。
高校時代、文雄に対し意地悪く威張っていた郷田浩だが、今はさすがにそんな態度はなく、ざっくばらんに接してくれていた。
いや、ざっくばらんなのは、結局、文雄は気遣う必要もない「どうでもいい人間」だからかもしれない。やっぱり軽んじられているのかもしれない。
酔いが回り、郷田浩の話は明け透けになっていった。
何でも母親が勧めた縁談を気乗りしないまま受けてしまったが、見合い相手はふてくされた感じの嫌な女だったという。
「ブスでもさ、性格が良ければまだしも、生意気でさ」
そこそこの大学を出たその女性は市役所務めの公務員だそうで、もしかしたら郷田はそういったところをやっかんでいるのでは、と文雄は意地悪い見方をしてしまった。郷田の行った大学よりは偏差値が上である。公務員だから給料もそこそこいいだろう。郷田が勤めているという零細企業よりは。
「でも結局、その女、断ったんだろ?」
ほかのメンバーが郷田に訊いた。
「ああ、実は……3月にオレの母親が死んじまって……脳梗塞でな」
郷田はしんみりとなる。その後の言葉がなかなか続かず、目頭を押さえる。
「知らなかった。……大変だったんだな。大丈夫か?」
「お前、高校の時、親に迷惑かけていたもんな」
メンバーたちが遠慮気に声をかける。
この時、文雄はふと思った。
――郷田は、母親の死を、高校の時、親しかったこのメンバーには知らせていなかったのか……。
つまり、今現在は高校時代の友人とはそう近しい関係ではなく、さほど交流もなかったということだ。
学生時代の友人というのは、卒業後はそれぞれ生活環境が異なり、一緒に過ごす機会が減り、疎遠になっていくものなのかもしれない。生活が変われば新しい出会いがあり、そちらを優先してしまいがちだ。
よほどの縁じゃない限り、古い縁はほどけていく。
郷田のグループに属していた彼らは本当の友だちではなく、単なる遊び仲間だったのだろう。
高校時代、友だちが多そうに見えた彼らがうらやましく思ったものだが……うらやましがるほどでもなかった……。
大人になってからいろいろ気づかされることは多い。
「いや、こっちこそ、場を盛り下げるようなこと言ってすまない」
郷田は気遣ってくれるメンバーへ力のない笑顔を振りまく。
――さすがの郷田君も、お母さんの死はショックで未だにその傷が癒えていないんだな。
やはり親には長生きしてほしい。文雄は郷田に同情した。
――原稿が上がったら、母さんのところへ面会に行かなくては……。
息子に迷惑をかけたくないと自ら進んで施設へ入居した母を想う。
「ま、そんなわけで結婚するつもりもなかったし、断ったんだ。そもそも母親があんなことになっちゃったしな」
郷田は話を続け、ジョッキに半分ほど残っていたビールを飲み干した。
「ところがさ、その女、何て言ったと思う?」
突然、郷田の口調が苦々しくなり、ここで間が空いた。郷田の顔が歪む。
「母親が死んで嬉しかったでしょう、ってさ。自分との結婚を断ることができて」
目の前にその女がいるかのように郷田は空を睨みつけた。
「ひでえ。断られた腹いせだろうけど、言っていいことと悪いことがあるよな」
「サイテーだな、その女。性格悪すぎ」
「ブスって、けっこう性格も歪んでんだよな」
メンバーも郷田の怒りに同調する。
「5コ年下だったけど、上から目線で言ってきてさ……もう居たたまれなくなって帰ろうとしたら、腕をつかんできて……それを振り払ったら、今度は暴力を振るったって被害者面して……とにかく参ったよ」
郷田の顔は憤怒にまみれ、声が震える。
そんな郷田を見て、文雄は思う。
――郷田も傷つくことがあるんだな。自分が誰かを傷つけることには無頓着なのに。
そこへ酒が運ばれてきた。今度は日本酒だ。
「まあまあまあ。これ飲んで、クズ女のことは早く忘れな」
メンバーが郷田に酒を勧める。
酌を受けた郷田は遠慮なくあおった。
そのうち悪酔いしたのか、見合い相手だった女性への罵詈雑言が郷田の口からあふれ出した。
その女は目が小さく、鼻はペタンとしていて、エラが張り、ずんぐりむっくりのチビで……要するに『ブスのパーツ』がそろっているのだとか。
文雄の頭の中でその女のキャラが形成されていく。
が、その『クズ女』のことを考えているうちに、郷田をここまで怒らせるなんて大した女だとも思うようにもなっていた。
高校時代、ヤンチャをしていた郷田だが、怒ると凄みがある。チビの女から見たら、郷田は相当に大きい男に見えるだろう。
なのに女は臆することなく、郷田を怒らせるような言葉をしつこく浴びせたようだ。
――女をそこまで駆り立てたものは何だ? 振られた腹いせなのか?
そして郷田がここまで傷つき、こだわるということは……女の言ったことが図星だったからでは? と穿った見方をしてしまった。
そう、郷田は母親の死にホッとしたところもあったのでは? それを女が見抜いてしまった……!
だが……ここで文雄は首をひねる。
もともと郷田は断るつもりで、とりあえず母親に勧められた縁談に臨んだという。
今時、親の言いなりになって、嫌々結婚する人はいないだろう。特にあの郷田が、親が望むからという理由で、意に沿わない相手との結婚を考えるはずがない。
つまり「母親が死んだから、結婚を断ることができた」というのも違和感ある。母親が生きていたって、結婚は断っただろう。
ならば郷田が母親の死にホッとすることもないはずだ。
なのになぜ「母親が死んで嬉しかったでしょう。結婚を断ることができて」などという嫌味なクズ女の言葉にこだわるのか? 気にしなければいいではないか。
郷田の母親が勧めたという不細工女との縁談――そもそも母親はなぜ不細工女を息子にあてがおうとしたのか?
郷田の就職先は零細企業とはいえ正社員。容姿もいい。高校の時からモテていたから、女の扱いにも慣れているはず。郷田浩の条件は決して悪くはない。
そんな郷田の好みを取り入れ、かつ嫁にふさわしい、そこそこの容姿の女性はたくさんいただろうに。
郷田の母親にとって不細工女の何が良かったのか?
公務員という安定した職と収入か?
母親が息子の嫁にそういうのを求めるものなのか?
そして郷田は最初から断るつもりで見合いをしたと言うが、見合いそのものを断らなかったのはなぜなのか?
よくよく考えてみたら、納得いかないところも多い。
郷田は本当のことを全て正直に話しているのか?
都合の悪いところを隠しているか、あるいはどこかウソをついているのではないか?
『クズ女』は本当にクズなのか?
女はなぜ『郷田は、母親が死んだことによって結婚を断ることができた』と思ったのか?
文雄の違和感は大きくなる。
郷田らは別の話題に入ったようだが、文雄には興味のない話だった。
文雄は抱いた違和感への答えを探る。
酔いが回った郷田たちは文雄そっちのけでおしゃべりを楽しんでいた。
ちょうどいい。文雄は思考の世界へ入り込んだ。
その後、しばらくして二次会もお開きとなった。
郷田たちは三次会へ行くようだったので、文雄は断り、お暇した。しつこく誘われるようなことはなく郷田浩はあっさりと引き下がってくれた。
やっぱり彼らとは住む世界が違う。これを機に親しくなることなどない。郷田浩やほかのメンバーと連絡先を交すようなことはなく、文雄は帰途に就いた。
また縁があれば会う機会があるかもしれないし、もうこれっきりになるかもしれない。
懐かしいなどという甘い感情が持てない高校時代の同級生たちとの乾いた時間は終わった。
今宵は中秋の名月。
星の光を駆逐するかのように月が妖しく輝く夜空の下、文雄の頭の中では郷田とクズ女のドロドロしたドラマが始まっていた。
突然、文雄はひらめく。
――郷田の母は脳梗塞で亡くなったと言っていたが、そういった病気は初めてだったのか?
うちの母親も脳をやられて半身不随になって要介護となった……。そうだ、郷田の母が以前にも脳の病を引き起こし、介護が必要な体になっていたとしたら……。
――結婚の条件は途端に悪くなる。だから郷田は母親のために一度は結婚を決めた。が、母親が亡くなりその必要がなくなった……だとすれば……!
顔を上げた文雄の目に、夜空を照らす月が映る。
太陽に較べたら、ささやかな月の光。
けれど、漆黒の空にくっきりと姿を現し、満ちたり欠けたりしながら暗闇の中で自己を主張する月のほうに魅かれる。
神秘的な光を放つ月に誘われ、再び文雄は物語の世界へ没頭する。
人間の醜さとエゴ。人間の影の部分。それらが通奏低音となり、ストーリーが頭の中で組み立てられていく。
えげつないキャラクターに同化し、自らの心も闇に呑みこまれる感覚に陥る。
繁華街の雑踏を抜け、静かな住宅街に入ると、月の輝きはよりいっそう増した。
だが、もう文雄の目には月は映っていない。頭の中では完成したどす黒い人間ドラマが展開していた。
暗黒物語に呑みこまれていく文雄を見守るように、月はいつまでも妖しく空を照らし続けた。