これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

桜の葉―フェミニストの逆襲

福田みすずのお見合い編、決着。

フェミニスト魂が炸裂する福田みすずVS郷田浩。この激烈な戦いをご覧あれ。
ついに世間の呪いが解ける――みすず編の最終回としてもいいくらいの話じゃ。

※前回までの「みすず・お見合い編」はこちら↓

では、以下本文。

    ・・・・・・・・・・

 ふんわりと薄桃色に包まれた桜並木。水色の空の下で穏やかな日差しを浴びながら桜が散り始め、歩道が花びらで敷かれていく春の季節となった。

 しかし、みすずは黒い懐疑心に覆われていた。

 3月初旬に郷田家の家族と会い、その2週間後、郷田浩がみすずの家にきて正式に挨拶する予定だった。
 トントン拍子に進むかと思われたこの縁談だったが、事態は一変した。
 郷田浩の母親が脳梗塞を起こし、この世を去ったのだ。

 みすずがその知らせを受けた時、ちょうど仕事を終え帰宅しようと市役所を出たところだった。
 なのでこのまま実家のほうへ向かい、郷田家を訪れようと浩へ連絡をとってみたが、浩からは「こちらはバタバタしており、手が離せない状態です」「手伝っていただくことも特にありません」「このままお待ちいただきたい」「また改めてご連絡します」と断られた。
 そこには「訪ねてもらっても、かえって迷惑」という空気が滲んでいた。

 みすずは正式に郷田家と縁を結んだわけでもなく、中途半端な立場だ。
 結局、一般客と同じ扱いで、伯母と一緒にお通夜・告別式に出席した。

 浩も薫も憔悴しきった様子だった。
 みすずは慰めの声をかけたものの、浩は儀礼的な笑みを浮かべるだけで言葉は少なく、放っておいてほしいようだった。薫ともあまり話せなかった。

 郷田浩の母親が亡くなったことは、もちろんみすずにとってもショックだ。
 が、浩の母親とは1回会っただけであり、浩や薫と同等の悲しみは持てない。郷田家と親交があった伯母のほうがまだ浩や薫の気持ちに寄り添えるだろう。
 なので彼らに立ち入るのが憚れた。

 そう、みすずは郷田家の家族ではなく部外者だった。浩との間には悲しみを分かち合うという関係を築くに至っていない。これまで単にビジネスライクに物事が進んだに過ぎず、情が全く育まれていなかったことを、みすずは改めて思い知った。

 告別式が終わった後、浩からは「しばらくそっとしておいてほしい」という内容のメールが着信したきり、なしのつぶてだった。携帯も郷田家の実家の固定電話も留守電のままだ。

 しつこくするのは悪いと思い、みすずからは連絡することを控えていたが、それから10日以上、郷田浩と連絡はついていなかった。
 郷田家に蔑にされているようにも感じ、徐々に浩への不信感が芽生え始める。

 そこで再度のお悔みの挨拶と心配していることを伝え「今後のことをどう致しますか」「いつお会いできますか」とメールを送ってみた。
 このまま連絡がつかなければ、仲立ちした伯母に相談するつもりだ。

 が、その夜、郷田浩から久しぶりにメールが届いた。それは「大事なお話がある」というもので詳細は書かれていなかったが、とりあえず日時と場所を決め、今度の週末に郷田浩と会うことになった。

 みすずの頭の中にある予感が働いた。
 ああ、やっぱりね……そう思った。

 そして週末。
 桜はほとんど散り、道端に積もっていた薄桃色の美しかった花びらは枯れ、茶色に変色していた。

 郷田浩と最初に会った喫茶店で、みすずは浩と対峙していた。

 浩は、みすずから微妙に視線を外しつつ
「今後のことについてはしばらく何も考えられない」
「忌中になるし、気持ち的にも1年は結婚できない」「待っていただくのは大変心苦しいので、この縁談を一度白紙に戻してほしい」
 というようなことを語り、お詫びの言葉を並べた。
 が、肝心なことを言わない。

 みすずが知りたいのは、結婚したいのか、したくないのか――だ。
 もちろん、その答えは察することができたが、みすずはわざとこう応えてみた。

「1年くらい、どうってことありません。郷田さんが落ち着くまで待ちます」
「いえ、それは悪いですから……」

 郷田浩はボソボソと口籠る。

「いえいえ、気になさらずに。お母様のことは私もショックでした。いずれ、ご焼香にお家にお邪魔させてください」
「ええ、まあ」

 浩の歯切れの悪い返答を聞きながら、みすずは話を進める。

「今まで話し合ったルールも変更になるようでしたら、改めて詰めていきましょう。時間はたっぷりあるのですから」
「いえ、その……自分としては今はそういったこと……考えられないんです」

「ええ、ですから郷田さんが落ち着いてからでかまいませんよ」
「いつ落ち着くか分かりません……1年以上、いや数年かかるかもしれません」

「待ちますよ」
「いえ、それは悪いですから……」

「ですから、かまいませんと申してます」
「いや……その……参ったな……」

 浩は頭に手をやる。が、決してみずすと視線を合わせようとしなかった。

 そう、みすずを気遣っているふりをしながら、実はすったもんだせずにこの場を切り抜け、いかにしてみすずから逃れるかしか考えていない。浩の心が手に取るように分かる。

 ――私は、一度は家族になろうと思った男に軽く扱われている……。
 みすずはそれが許せなかった。

「ねえ、郷田さん、あなたの気持ちを正直に言ったらいいじゃないですか」
「え」
「私と結婚したいんですか? それとも、したくないんですか?」
「……」
「待たせたら悪いとか、そういうことではなく、それが一番大事なことでしょ?」

 郷田浩は黙り込んだままだ。
 が、みすずも口を開かず浩の答えを待ち続けた。
 二人の間の沈黙がさらに空気を重くする。

「……察してくれませんか」

 気まずさに耐え切れなくなったのか、ようやく口を開いた郷田浩の答えはこれだった。
 みすずは心底、呆れた。

「きちんと答えたらいかがですか。ここまできて良い人ぶることないでしょ。私に嫌われても構わないはずですよね? それとも仲立ちした私の伯母の手前がありますか?」
「……」

 再び郷田浩は黙り込む。が、決してみすずを見ようとしない。
 みすずも言葉を紡がずに、そのまま浩を見つめた。周囲のざわめきが耳に入るものの、沈黙だけが鎮座する。

 やがて、浩は頭を下げるとひたすら謝った。
「申し訳ありません。勘弁してください」

 が、浩が謝れば謝るほどに、みすずはバカにされた気持ちになる。
「やめてくださいよ。何だかこっちが悪者みたいじゃないですか」

 と、その時、既視感がみすずの頭をかする。
 そうだ、四条静也の男女別年賀はがき事件の時、四条静也が謝れば謝るほどバカにされた気分になり、女子職員の一人が「やめてください、こっちが悪者みたいじゃないですか」と言い放ったあの構図と同じだ……。

 もちろん、今ではもう四条静也のことは何とも思っていない。でも今回の郷田浩のとった言動はあまりにみすずを見くびっていた。
 郷田の気持ちを察し、おとなしく引くことはできない。自分はそこまで寛容になれない、いや、都合のいい人間になれない。

「謝るだけでは私の心は動きません。私はあなたの気持ちが聞きたいのですから」

 ここでようやく浩はみすずに目線を合わせた。そして一瞬、間をあけてこう言った。
「あなたとは結婚できません」

 みすずは冷やかに浩を見つめ返す。
「つまり、介護が必要だったお母様が亡くなった今、私は用済みになったということですね」

「……いえ、一時は本当に家族になろうと思っていたんですが……」
 再び浩は口ごもる。

「なぜ、そこで否定しようとするのですか。私を利用しようとしたけど要らなくなった、簡単に言えばそういうことでしょ? そこを肯定してくれないと話は進みませんよ」

「……すみません」
 浩は頭を下げるが、みすずは容赦しなかった。
「謝るところではないでしょ。肯定するか、しないかです」

 そう相手を追い詰めながら、みすずはまた四条静也のことを思い出していた。
 ――私ったら、何だか四条君に似てきた?

 相手をとことん追い詰めるやり方はまさに四条静也だった。一緒に仕事をしているうちに、いつの間にか彼の影響を受けてしまったようだ。

「郷田さん、謝るだけでは私は納得できません。説明責任を果たしてください」

 すると郷田浩は渋々といった感じで話を始めた。

「妹には結婚を約束した人がいまして……しかし母が倒れてから、その話が暗礁に乗り上げて……母はいつも嘆いてました。自分のせいで薫の結婚がダメになったら申し訳ないと。また私の結婚についても嫁の来てがないのではと心配し、母は『早く死にたい』『お荷物になりたくない』と毎日のようにこぼしていました」

 ここで一旦、話を切り、郷田浩はコーヒーを口にした。
 みすずは何の反応もせずに、話の続きを待った。

「そんな時、母があなたの伯母様に相談でもしたのでしょう。あなたとの縁談話が持ちあがりました」

 浩の話が再開される。

「私は自分の気持ちよりも母の気持ちを優先しました。母のほうは縁談話に乗ってほしいようでした。妹のこともあります。私の結婚の目途がつき、私のほうで母の面倒を見ることができれば、薫は心置きなく結婚できますし、その相手の方も不安が払拭されるでしょう。妹の相手は転勤族です。結婚すれば、いずれここを離れることになり、母の世話ができなくなります。なので母と妹のために、私はあなたとの縁談を進めることにしたのです」

 ここで浩は口をつぐみ、これが答えとばかりにそれ以上話そうとしない。
 が、みすずはさらに追及する。

「あなたが家族思いだということは分かりました。その大切な家族のために、自分の気持ちを押し殺して私と結婚しようとしたということですね」

「……その、私は若い時ヤンチャをしてまして、母と妹に迷惑をかけてきました。だから今度は自分が母と妹のために尽くしたいと……」

 浩は同じようなきれいごとを繰り返す。
 これでは埒が明かない。

「質問を変えます。お母様と妹さんのことがなくても、私とお見合いをしましたか?」
「……すみません」
「謝ってごまかそうとするのは、やめてください」

 ここでようやく、浩は吹っ切れたかのような顔になり、やっと答えた。
「母と妹のことがなければ、あなたとはお見合いしなかったと思います」

「つまり、あなたはお母様と妹さんのために、私を利用しようとしたということですよね?」

「利用しようとしたというか、その、助けてもらおうと……」

「で、今はその必要がなくなったので、私は用済みになったんですよね? それを『利用しようとした』というのですよ」

「……ええっと、もういいでしょ。お互い、嫌な気分になるだけです」
 浩は伝票に手を伸ばし、立ち上がろうとした。

「まだ、話は終わってません。私はまだ確かめたいことがありますから、それに答えてからにしてください。あなたには答える義務があります」

 立ち上がりかけた浩はドスッと音を立て腰を下ろした。いい加減にしろとばかりに苦々しい表情を浮かべている。
 浩のこの態度で、みずすは戦闘モードに入った。

 ――この男は、私に悪いことをしたとは、これっぽっちも思っていない。
 ならば、ここで逃すつもりはない。この件を何事もなかったかのように終わらせたくない。

 このまま、幕を引くつもりはなかった。
 自分も傷つく代わりに相手にも相応の傷を負ってもらう。

「私との結婚に乗り気じゃなかったあなたは、お母様が亡くなってホッとしているところもあるんじゃないですか? 私と結婚せずに済むのですから」

 このみすずの言葉を聞き、郷田浩は一瞬、虚を突かれた顔になり、その直後、憤怒の目でみすずを睨んだ。

 が、それに臆することなくみすずは冷徹に詰め寄る。
「答えてください」

 しかし郷田浩は無言で立ち上がり、伝票をつかむと席から離れた。

「逃げるのは卑怯ですよ。答えてください」
 みすずはすぐさま追いかけ、浩の腕をつかむ。

 

 が、その手は乱暴に振り払われてしまい、その勢いでみすずは派手に転び、テーブルの端に頭をぶつけた。その音に店内がシーンとなる。

「大丈夫ですか」と店員が寄ってきた。客たちも興味津々といった様子で見守る。男女の諍いごとだ。誰もが固唾を飲み、みすずと郷田浩に注目していた。

 さすがにバツが悪かったのか郷田浩もみすずのところへ来て片膝をつき、謝った。
「すみません……」

 が、その前に郷田の口から舌が微かに鳴ったのをみすずは聞き逃さなかった。『参ったな。面倒はゴメンだ』という郷田の本音がその舌打ちに込められていた。この男はどこまでも、みすずを見くびっていた。

 

「さっきの質問に答えてください。それともこのように暴力でごまかしますか」
 こんなことで、怯むわけにはいかない。追及の手を緩めるつもりはない。

 しかし郷田浩のほうは応えることなく、みすずを無視したままレジへ向かった。

 ――上等。
 みすずもすばやく立ち上がり、会計をしてもらっている郷田の横から「おつりはいいです」とさっさと自分の分を置き、店の入り口で待機する。

 会計を済ませた郷田はみすずを見ると眉をわずかにしかめ、みすずを避けて店を出た。
 みすずもその後をついていき、足早になる郷田の背中に声をかけた。

「あなたは質問に答えてません。答えを聞くまで私はどこまでも追いかけます」

 郷田は立ち止まり、ため息を吐きつつ、振り返った。
「公務員がストーカーですか。あなたの役所に訴えてもいいんですよ」

「そうきますか」
 みすずはますます闘志が湧いた。

 ――この男は最初から私を見下していた。今まで、仲立ちした伯母の手前があるので形だけ謝り、最低限の礼を守っていたに過ぎない。

 けれど郷田の化けの皮が徐々に剥がれ落ちてきている。
 ――今、その本性を暴いてやる。

「ならば警察に行きましょう。あなたが暴力を振るったことは、あの店の人たちが証言してくれるはずです」

「暴力って大げさな……あんたがオレの腕をつかむから、振りほどいただけだ」

 郷田の言葉遣いが変わり始め、ぞんざいになっていく。

「逃げようとするからです。私の最後の質問に答えれば済む話です」

「わっかりました、そっちの思う通りでいいです。それで満足だろ」

 バカにしたような郷田の態度に、みすずは切れた。

「それでは答えになってません。お母様が亡くなってホッとしたのかどうかです。はっきり答えなさいっ」

 みすずは声を張り上げ、仁王立ちになって郷田を睨みつけた。郷田のほうがみすずよりも25cm以上背が高かったが、みすずには目の前の男がやけに小さく見えた。

 一瞬、郷田は声を詰まらせる。
「あんたは残酷な人だな……」

 が、みすずは一笑に付した。
「そうやって私を加害者に仕立て、自分を被害者にしますか。その卑怯さに呆れます」

「はいはい、卑怯でいいよ。もういいっしょ」

 ふて腐れた様子の郷田はかったるそうに手をヒラヒラさせ、踵を返そうとするも、みすずは決して逃さない。

「いえ、まだ答えてませんよ。お母様が亡くなってホッとしましたか?」

「いい加減にしろ」
 ついに郷田は怒鳴った。

 道を歩いている人々が振り返る。
 が、もう恥ずかしい気持ちも飛んでいた。すでに臨戦態勢に入っていたみすずは臆することなく言い放つ。

「今度は恫喝ですか。そんなことで私は怯みません」

 道行く人々がチラチラ見ながら、あるいは立ち止まり、遠巻きにして眺めている人もいた。が、もはやみすずの視界には入らなかった。みすずの瞳に映るのは目の前にいる男だけ――みすずが倒すべき敵だ。

「この質問に答えられないということは、あなたはお母様が亡くなってホッとしたということです。自分の心の中はお判りでしょう? ごまかすのはおやめなさい。家族思いであるはずのあなたはお母様の死を喜んだのですよ」

「この……クソアマ……ドブスが」
 郷田浩は歯ぎしりしながら、みすずを憎悪の目でねめつけた。

 その郷田の姿にみすずは失笑した。好青年だなんて笑わせる。目の前の男と「家族になれるかも」とちょっとでも思った自分が恥ずかしい。

 以前、この男が自分の母や妹を大切にしていることに好感を持ったが、あれはこの男のごく一面に過ぎない。
 人間、自分が大切に思う人には優しいし、これからも関わっていく人に対しては気遣う。
 しかし、そうでない者に対してはどうか。ここで真の人間性というものが顕れるのかもしれない。

「ついに本性が出ましたね。あなた、最低ですよ。都合の悪いことを言われ、ごまかせなくなれば悪態をつき、相手の外見を貶す……それを負け犬の遠吠えと言います」

 今まで郷田浩の淡々としていたところが四条静也に似ていると思ったこともあるけれど、とんでもなかった。
 郷田が淡々としていたのは、みすずに全く興味を持てなかったからだ。

 とこの時、ふと心の片隅で『私のこの容赦ない言い方……まるで四条君だ』と思った。
 周囲と距離を置く四条静也は、自分に関係のない諍いごとは避けるが、こと自分と自分の家族に関わることとなると徹底的に噛みつき、相手が屈するまで追い込む。

 

 そう、何だかその四条静也が自分に乗り移っているようだ。
 郷田浩ではなく自分のほうがずっと四条静也に近い――みすずは頬をゆるめた。

「お見合いは最初からお断りするべきでした。後悔してます。実は私も、断ろうと思いながら興味本位でお見合いに臨んだのです。きっとバチが当たったんでしょう」

 苦笑いを浮かべ、みすずはここで一旦、言葉を区切る。郷田は視線を落とし黙ったままだ。

「けれどあなたのお母様と妹さんにお会いし、家族としてやっていけるかなと思ってしまいました。お母様のことは本当に残念でした」

 郷田浩の顔が微妙に歪むが、みすずはそのまま話を続けた。

「ところで薫さん……妹さんは、あなたが私との縁談を断ることを知っているんですか?」
「はあ……」

 肯定したような浩の返事が聞こえた。

「妹さんはそれに賛成しましたか」
「最終的には……」

 この郷田浩の答えようは――薫は、兄がみすずとの結婚を取りやめることに最初は賛成してなかったことが伺えた。みすずはそれで救われた気がした。郷田家に関わったことを全否定せずに済む。浩の母親を偲ぶこともできる。

「これで気が済みました。今までのご無礼、お許しください。ただ、破談にすることをあなたからの薄っぺらい上っ面の言葉を聞いただけで済ませたくはなかったのです。そんな軽い話じゃありませんから」
 謝りながらも、皮肉を混ぜる。

「……」
 郷田浩はただ俯いていた。その表情はうかがい知ることはできない。

 みすずも郷田浩に焦点を合わせなかった。正直、この男を視界に入れるのも嫌だった。

「では失礼します。もうお会いすることも連絡することもありません。私も正直、懲りました。薫さんとの縁も切れてしまうのは残念だけど、どうぞよろしくお伝えください」

 目の前の男に軽く会釈をして、みすずは踵を返した。
 ――この男との縁は切れた。

「さて破談になったこと……伯母さんにも連絡しなきゃか。ま、あの男も仲立ちした伯母には挨拶くらいするだろうけど……」

 やっぱり自分は恋愛も結婚も向かない。
 認めよう、自分は男は苦手だ。傷つくのはもうゴメン。
 人間、そう強くはなれない。恋愛や結婚がどんなに素晴らしく人として成長させてくれようが、こりごりだ。

 今回、自分も傷ついたが、郷田浩も傷ついただろう。そう、お互いに傷つけ合ったのだ。それも恋人や夫婦といった深い関係にあった果ての話ではなく、こんな薄っぺらい縁で。

 が、それでも――最初にこのお見合いを受ける時に感じたネガティブな思い、そしてずっと心の底に巣くっていた「ここまでして自分は結婚したいのか」という疑問が、このダメージをいくらか少なくしてくれていた。
 自然に心に予防線を張っていたのだ。

 郷田浩はみすずに対し常に他人行儀で親しみを表すことはなかったが、最後の最後で怒り、憎悪・敵意という感情だけ見せた。

 もしも郷田が今までに、みすずへほんの少しでも思いやりの情を見せたことがあったならば、みすずもここまで追い詰めなかったかもしれない。

 郷田浩は自分の家族に対しては優しい青年であり、いい人なのだろう。でも、みすずに対しては冷淡だった。

 そう……みすずは郷田浩にとって優しくしたり思いやりたいほどの人間ではなかったということだ。最初から軽んじられていたのだ。

 ――郷田浩はその軽んじている相手と結婚しようとしていた……。母親と妹のために。

 みすずはこの男の歪んだ結婚観に薄ら寒さを感じた。要介護の親を抱え最低の結婚条件となってしまった郷田自身もどこかあきらめの気持ちがあったのだろう。それがあの冷めた態度に現れていたのかもしれない。

 それを自分は見抜けなかった……。
 もし郷田の母親が亡くならなければ、この男と結婚していたかもしれないのだ。

 みすずに仕事を続けてほしいと言っていた郷田。
 人生のパートナーではなく、単なるATMとして扱われる結婚生活となっていただろう。

 つまり、郷田の母親が亡くなって助かったのは、みすずも同じだということになる。
 そのことにみすずは愕然とした。

 ――こういった恋愛や婚活事で男と関わると、自分がすり減っていく気がする……。

 そして自分はとても嫌な人間になってしまい、相手にも嫌な思いをさせてしまう。これはみすずにとっても、相手の男性にとっても不幸なことだ。

 ――男と縁を結ぶのは、私の場合は難しい……。

 根底にあるのは男への不信感と警戒感。これはもうおそらく払拭できない。
 男のほうも、そんな女とつきあったところで面白くないし、情も沸かないだろう。
 ましてや、みすずの不信感や警戒心を努力して解こうなどという殊勝な男はいない。また、自分はそこまでの女でもない。

 ――男と自分は徹底的に相性が悪い。男とは距離を置こう。

 周囲は「寂しい女」と揶揄したり、あるいは「そんな酷い男ばかりではない」と慰めるかもしれないが、世間がお勧めする恋愛も結婚も自分にとっては難儀な行為だ。辛い思いをして苦手なことを克服したところで、幸せになれるとは限らない。

 というか、少なくとも恋愛や結婚は『克服するもの』ではない気がする。
 そこまでして恋愛や結婚したいと思えない。

 言い方を変えれば、そこまでしてでも「したい」という人が恋愛や結婚に向いているのだろう。また、そう思えるような相手に出会ってこそできるのだろう。

 そもそも恋愛も結婚も相手があってこそ。自分一人ではできないのだから難しくて当然だ。
 恋愛も結婚も知ったことではない。負け犬・かわいそうな女で結構。どうでもいい。

 みすずはスマフォを取り出し、郷田浩の連絡先を削除した。
 今度こそ自由に自分らしく生きよう。

 ――そうだ、男とは闘っていたほうが、自分らしい。

 あの時、体の大きい郷田に臆することなく対峙し、四条静也が乗り移ったかのように相手の痛いところを突き、郷田の本性を引き出せたことで……関係ないけど、四条静也にもお礼を言いたい気分になっていた。

 そして自分を世間の呪縛から解いてくれた郷田浩にも感謝したい。
 あそこまで酷い男だったからこそ、劇薬になり得た。

 ふと周囲の風景に目を見ると、今まで咲いていたはずの桜はすっかり花を落とし、新緑が吹き、その後ろにはいつの間に晴れたのだろう青空が広がっていた。

 ――私は愛でられる花にはなれない。

 ただ、桜の花はあまりに儚い。
 が、その後に芽吹く桜の葉は、太陽を浴び、新緑から深い緑になり、長い夏を力強く満喫する。そして秋には紅くなり、よりいっそう味わい深くなる。

 ――そうだ、すぐに散る桜の花なんて、こっちから願い下げ。どうせなら桜の葉のほうがいい。

 ついにみすずから世間の強固な呪いが消え去る。
 もう二度と惑わされることはないだろう。 

 季節は、薄桃色のぼんやりした世界から青と緑の鮮やかな世界へ移る。
 もう初夏だ。

 

 

※ほか、福田みすずが主となるお話はこちら↓ 

※短編連作小説「これも何かの縁」目次はこちら↓