これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

面倒な年賀状―赤ちゃんの写真入り

『これも何かの縁』本編第二部――キャラクターが増え、四条夫妻以外の人間ドラマがけっこうあったりしますが、まずは四条夫妻の話からスタートです。

若夫婦・四条静也と理沙の子ども・涼也の初正月。
今年の年賀状はもちろん涼也の写真付き。

でも、赤ちゃんの写真付きは女性には微妙な問題をはらむということで、男性のみにしておき、男女別年賀状にした静也と理沙。
そうやって女性には気を使ったつもりが、かえってアダとなり、初仕事の日に「男女差別だ」と女性陣に責められる。ああ、面倒くさい人間関係。

赤ちゃんの初正月、門松・松湯についてプチ雑学あり。

では、以下本文。

    ・・・・・・・・・・

 冷たい風が澱んだ空気を一掃させ、空はところどころに薄い雲を残しつつ晴れ渡り、清々しい元日となった昼下がり。

 四条静也と妻の理沙は、生後3か月の涼也、そして白文鳥の『ふっくら』『ぷっくり』と共に、自宅で和やかにお正月を迎えていた。

「外が暖かければ、家族皆で初詣に行きたかったんだけどなあ」
 静也は炬燵で蜜柑を頬張りながら独りごちる。

 残念ながら、外は肌に突き刺すような冷え込みで、時折強い風が吹き荒れており、家の中でおとなしく過ごした方がよさそうだ。涼也を連れてのお出かけはまたの機会に。
 今年は静かに寝正月。

 息子の涼也は1度の睡眠時間が長くなり、夜中の授乳も2回か3回程度になった。
 理沙の睡眠不足も多少はマシになったものの、やっぱりキツイ。なので今も和室で昼寝している。

 夫婦二人っきりの時とは生活環境がだいぶ変わり、家事の手抜きも仕方なしといったところで、大晦日の大掃除も適当にやって済ませたため、今も部屋の中は雑然としている。

 それでも簡略ながらもおせちは作ったし、鏡餅も用意した。
 涼也を寝かせているベビーベッドの柵の外側には『破魔矢破魔弓』を紐で飾り、お正月雰囲気はそこそこ保たれている。

 新生児の初正月は健康を祈願して、女の子には『羽子板』、男の子には『破魔弓』を飾るのが日本の昔からの風習で――『羽子板』『破魔弓』は子どもを護る魔除けの役割を担う。

 ちなみに『破魔矢破魔弓』は年末セールをしていた商店街のくじ引きで当てたもので、涼也にとって幸先のいい新年になりそうだ。

 静也は食べ散らかした蜜柑の皮を片付け、お昼寝タイムの理沙を尻目に、さっき届いたばかりの年賀状を眺めた。

「うちの年賀状も届いているかなあ」
 思わずにんまりしてしまう。
 そう、今年の年賀状は涼也の写真入り♪ 親バカかもしれないけど、なかなか素敵な年賀状になった。

 それでも『子どもの写真入り年賀状』について、理沙と悩みに悩んだっけ……。
 静也は先月へ思いを馳せる。

 ――年の瀬の休日。年賀状を作らなくてはということで理沙と相談していたのだが――涼也の写真入りにしようと当然の提案をした静也に、理沙は待ったをかけた。

「子どもの写真入りの年賀状って、不快に思う人もいるみたい。たしかにさ、それほど親しいわけでもない他人の子どもの写真なんて興味ないよね」
「興味がないことと『不快』は違うだろ」
「そうだけど……ま、男性はともかく、女性の中には不快に思う人もいるみたい……」
「やっかみということか?」
「うん……特に、子どもが欲しくてもできない人にとっては苦痛っていう話、よく聞くよ」
「他人の幸せを喜べない人間ってかわいそうといえば、かわいそうだよな」
「それ、上から目線」
「いや、だってオレたちって、昔は『かわいそうな人』だったよな?」
「まあね。他人の幸せなんて喜べなかったよね」

 理沙は苦笑しつつも同意する。
 こういうところは似た者同士、似た境遇で、似た環境で育った者同士にしか通じない感覚だ。

「私も昔は、家族がいる人をやっかんでいたっけ。だから、子どもが欲しくてできない人がやっかむ気持ち、落ち込む気持ちは理解できるよ」

 静也と理沙は児童養護施設育ちだった。
 静也は8歳で、理沙は14歳で家族を失い、ほかに養育してくれる親族がおらず、施設送りとなった。

 施設では孤児は少なく、静也と理沙以外は両親もしくは片親が存命している子どもたち――親の離婚、病気、貧困、虐待、育児放棄が理由で預けられた子、保護された子たちばかりだった。

 なので、そういった子たちとも距離を置いていた。
 どんな親であろうと生きているというのが、うらやましかった。

 親から愛されて育った静也と理沙には所詮、虐待された子や育児放棄された子の気持ちは分からない。心の底から寄り添えない。大きな溝があるのだ。

 学校の同級生たちとも離れた。皆、普通に家族がいて、普通の暮らしをしている別世界の遠い人間だ。合うわけがない。

 昔はそういう人を遠ざけていた。
 ちょっとしたことで嫉妬心を抱いてしまう。悪気ない『幸せな普通の人』から傷つけられる。

 ……というか自分が勝手に傷ついていた。そしておそらく、自分たちも悪気なく人を傷つけている。
 だから、自分と違う世界にいる人間は今も苦手だ。
 なので夫婦仲は良いが、友人はいない。

「オレたちは、未婚の人や子どもがいない人からやっかみの対象になるのかな」
「もち、そうじゃない人もたくさんいるだろうけどね」
「ま、自分が嫌われるのはかまわないけど、涼也の写真を見て不快に思われるのは嫌だなあ」
「けど、黒野先輩は喜んでくれると思うよ」
「ああ、あの人は『やっかみ』とは縁遠い性格しているよな」

 黒野先輩は男性ホルモンが過剰に分泌されているのではないかというようなマッチョな大男で、おおらかな性格はいいのだけど、ちょっと下品でセクハラ言動が目立つのが玉に瑕だ。

 ま、それはともかくとして――
 基本的に男性は『赤ちゃんの写真入り年賀状』をもらったところで傷つかないし、不快にも思わないだろう。静也と理沙に好意的な人は喜んでくれるだろうし、そうじゃない人は単に興味が持てないだけで気にしないはず。

 問題は女性だ。
 ――と、ここで静也はフェミニスト・福田みすずを思い浮かべた。

 みすず先輩は『女性の権利』にうるさい人だけど『働くママ応援』の立場だから、たぶん涼也の写真入り年賀状を不快には思わないだろう。

 が、ほかの女性職員については判断しかねる。親しく交流しているわけではないので、彼女たちの性格や考えもよく分からない。

「私のところは、小林主任……ちょっと黄信号かも」
 理沙が肩をすくめていた。

 小林主任は、理沙と同じ生活部市民課にいるアラフォー独身女性だ。理沙が悪阻で度々休んだ時、仲間内で「度々休まれては困る」と迷惑がるようなマタハラ発言をしていた――静也にとっても何となく苦手な人物だ。

 もちろん小林主任にも義理で年賀状は送るつもりだけど、赤ちゃんの写真は嫌味に捉えられる危険性がある。

「難しいな。涼也の写真入り年賀状、あきらめるか?」

 でもやっぱり……親バカと言われようが、涼也の写真入り年賀状も捨てがたかった。

「男性は赤ん坊の写真入りでも気にしないよね」
「いっそのこと、男女別にするか」
「あ、それいいかも」

 ということで、男性には『涼也写真入り年賀状』を、女性には無難に『普通の年賀状』を送ることにした。

 みすず先輩だけ『涼也の写真入り年賀状』にしても良かったが、福田みすずと特に親しいわけでもない。なのでほかの女子職員と同様にした。
 たかが年賀状、されど年賀状だ。

「男女別年賀状なんて、みすず先輩がこれを知ったら、男女差別って言われそうだな」
「仕方ないよ。事実、一部の女性にとってはナイーブな問題のようだし」

「礼儀上、年賀状を送らないわけにはいかないもんな」
「ま、私は嫌われても、育休でしばらくは職場の人間とは会わないで済むからいいけど……」

「オレも基本、人からどう思われようと別にかまわないけどな」
「おっ、頼もしいね」

 投げやりにも聞こえる静也の言葉を、理沙は頼もしいとプラスに評した。
 そんな理沙だからこそ、静也も安心して本音を言える。こういった価値観を共有できるかどうか、一緒に生きていく上でも大切かもしれない。

 静也も理沙も自分を守るために、他者に対しては厚いバリアを張り、シャッターを下ろしてきた。必要最低限の礼儀をわきまえ無駄な諍いを避けながら、他者とはあまり関わらないようにしている。

 静也と理沙は似た者同士。他者に対しては冷めた夫婦だ。
 けれど涼也のことで、他人から不快に思われたくない。これも二人の共通する気持ちだった。

 そしてこの時『男性女性関係なく、涼也の写真はなしにする』という選択をしなかったことを静也は後悔することになる。

   ・・・

 年賀状も無事に送り、正月三が日は家族でのんびりと過ごし、迎えた仕事初めの日。
 静也は理沙に見送られて、寒空の下、職場へ向かった。

 静也の所属する○○市役所総務部広報課では、始業時間前、お正月気分が抜けないまったりした空気の中、職員たちはそれぞれ新年の挨拶をしていた。

「静也~、おめでとう。赤ん坊、さすがにかわいいよな~」
 黒野先輩はいつになくデカい声で静也に話しかけてきた。

「どうも……」
 静也は照れつつ、心の中では『当然だ』と親バカモード全開だった。

 そこへ、みすず先輩が入ってきた。
「へえ 黒野は四条君のところの赤ちゃん、見たんだ~」

「いや、年賀状にあっただろ? 写真付きで」
 何気ない調子で黒野が返す。

「え? 写真なんてなかったけど」
 そう言うと、みすずは静也に視線を移した。

黒野だけ、写真付きにしたんだ?」
「いや、その……」

 どう言い逃れようかと静也が口籠っていたら、ほかの男性職員が最悪のタイミングで静也に声をかけてきた。

「四条さんとこのお子さん、かわいいね。あれ見たらうちも早く欲しくなっちゃって」
 新婚の男性職員だった。

 すかさず、みすず先輩はその男性職員へ問う。
「かわいいって……四条君の年賀状にあった赤ちゃんの写真のこと?」

「え? そうだけど……」
 男性職員は怪訝な顔で答えた。

 みすずは再び静也に視線を戻す。
「私だけ仲間外れってこと? もしや私が赤ちゃんの写真を見たらやっかむと思った?」

「いえ、その……」
 静也はしどろもどろになりながらも、この場を上手く収拾したいと頭を整理する。

 が、剣呑な雰囲気に引き寄せられるように人が集まり、事態はますます悪い方へ向かった。

「え? 私も赤ちゃんの写真なんてなかったけど」
 ほかの女性職員も入ってきた。

 それを聞いたみすずは細い目をさらに細めた。
「つまり女性には赤ちゃんの写真なし、男性には赤ちゃんの写真付年賀状にしたってこと?」

「……はい」
 静也は頷くしかなかった。

「女性は嫉妬する、男性は嫉妬しない、だから、そうしたんだ?」
「……」

 簡単に言えばそういうことになる。
 もちろん、女性全てがそうだとは思っていないが、ごく一部に涼也の写真を不快に思う人がいるかもしれない。こちらとして気遣ったつもりだった。
 そう説明しようとしたら――

「女性蔑視」
 みすずの鋭い声が静也の耳を襲った。

 思わず静也は顔をしかめる。
 結局、涼也の写真入り年賀状のことで、皆に不快な思いをさせてしまったようだ……。つい、ため息が漏れた。

「何? その態度……」
 みすずが噛みつく。バカにされたと思ったのだろう。

「おいおい、正月早々、たかが年賀状のことでそんなにギスギスすることないじゃんか」
 黒野が割って入るが、かえって女性陣はフィーバーしてしまった。

「女性に向かって『ギスギスしている』って言うのもセクハラです」
「赤ちゃんの写真入りにしたら、女性はやっかむだろうと思われたことが不愉快ですね。そんなに未婚者や子どもがいない女って不幸に見えるんですかね? そんなにかわいそうですか?」

 ほかの女性職員らもみすず先輩に同調した。たしか彼女たちも微妙な年頃のアラサ―未婚の女性だ。いや『微妙な年頃』というのも女性蔑視に当たるだろうか。
 実際、女性にはまだまだ年齢差別がつきまとっている。

 黒野はこれ以上何か言っても火に油を注ぐだけと判断し、退散してしまった。
 触らぬ神にたたりなし。ほかの男性陣も遠巻きに見ているだけだ。

 静也は深く頭を垂れるしかなかった。
「本当に申し訳ありませんでした」

 まさか年賀状の話題が出て、子どもの写真入りかそうでないか、こんな形でバレるとは思いもしなかったし、女性たちがこんなに怒るとは……想像もしていなかった。

 が、謝罪をする静也に対し、また別の女性職員がこうつぶやいた。
「そんな風に謝られても、かえってバカにされている感じ……」

 その声は静也にも届いた。
 ――じゃあ、どうすればいいんだ? そもそも、これってそんなに悪いことなのか?
 そう思いつつも、静也は頭だけではなく腰を折り曲げ、謝罪し続けた。

 しかし、そうすればするほど女性陣には慇懃無礼に見えたようだ。
 丁寧過ぎる謝罪はわざとらしさを醸し出す。

「やめてくださいよ。何かこっちが悪者みたいじゃないですか」
 女性職員らは冷めた表情で静也を一瞥すると離れていった。

「……」
 福田みすずもこれ以上は何も言わず、席に着く。

 これを機に職員たちもそれぞれ自分のデスクへ戻っていった。
 正月気分はすっかり消え去り、あちこちで聞こえてくる職員らの「あけましておめでとう」の挨拶が空疎に響く。

 結局、涼也のことで人を不快にさせてしまった。涼也の写真入り年賀状は後味悪いものとなった……。

 つい涼也のことで有頂天になり、この姿を他人にも見せたい、祝福されたいと思ったのがそもそもの間違いだった。いつものように義務的な礼だけ尽くして距離を取るべきだったんだ……。

「……これも調子に乗り過ぎた罰か」
 静也は思わず独りごちた。

 その言葉が聞こえたのか、みすずは怪訝な顔をしてデスク越しに静也を見つめた。

 それに気づいた静也はもう一度みすずに向かって深く頭を下げた。
「反省してます。申し訳ありませんでした」

 過剰な謝罪はかえって嫌味だ。
 その姿を遠くから見ていた女子職員たちは眉をひそめた。静也の謝罪を皮肉として受け取ったようだ。

「まあまあまあ、この辺にしておけって」
 黒野先輩がみすずや女性職員らを諭した。

「ええ。何だか、こっちが四条君をいじめているみたいになっちゃったね」
 みすずはため息交じりに、静也を伺う。

「いえ、こちらが悪いんです。二度とこのようなことがないよう以後、重々気をつけます」
 静也はさらに頭を下げると共に、分厚いシャッターを下ろした。

   ・・・

 そんな静也の姿を見ながら――みすずはこんなことを思い出していた。

 以前、妊娠中の四条理沙が悪阻で度々職場を休み、四条理沙と同じ課にいる小林主任が職員食堂でマタハラ発言をして四条静也と険悪になったことがあり、みすずは四条静也に加勢したのだが……

 マタハラ発言をした小林主任に、みすずは一瞬『もしや四条さんに嫉妬しているのでは』と思ってしまった。
 自分も、年増の独身女性に対し、そう捉えてしまったのだ。

 女は結婚し子どもを産んでこそ幸せだ。それができない女性は、それができた女性に嫉妬しているに違いない――自分もこうした世間の価値観に汚染されている。

 この汚染を除去するのは難しい。

 なので若い四条夫妻が、女性一般に対し「赤ちゃんのことでやっかむのでは」と警戒したことも当然だったかもしれない。

 もう、みすずは四条静也に対し怒ってもいないし、いつものように接したかったが、四条静也の表情は硬く『近寄らないでほしい空気』を醸し出していた。

 ほかの女子職員は静也をチラチラ見ながらヒソヒソ話をしている。四条夫妻からの年賀状が赤ちゃんの写真付きだったかどうか、確認しているようだ。しばらくの間、四条静也は女性らから冷やかに見られるだろう。

 そのきっかけを作ったのは自分かもしれない――みすずは反省しつつも、この気まずい雰囲気をどうすることもできなかった。

 新年の仕事始め。総務部広報課は白けた気分の中でスタートした。

   ・・・

 育休中の理沙が所属している生活部市民課の小林和江の耳にも、この『赤ちゃんの写真付か否か・男女別年賀状の話』が入ってきていた。

 昼食時、職員食堂で女性らが話題にしており、四条理沙がいる市民課の職員らも「四条さんからの年賀状が赤ちゃんの写真付だったかどうか」話のタネにしていた。

 もちろん和江には『赤ちゃんの写真がない当たり障りのない年賀状』が届けられていた。

 ――男女別年賀状なんて、四条さんもヘンなこと思いついたわね。

 和江は苦笑する。

 ――気遣いが裏目に出ちゃったのね。

 そもそも『子どもが欲しくてもできない人への配慮』ってしなくてはいけないのだろうか?
 全て自分の思い通りに生きている人などいない。それが当たり前。いちいち気遣っていたらキリがない。

『結婚をし、子どもを持ち、家族を持つことこそが幸せ』『子どもがいない人は寂しい』『子孫を残せない人は敗退者』『家庭がない人は孤独で不幸』と思い込んでいる世間の価値観がある限り、年賀状に赤ちゃんの写真があるかないかで、こんな下らないことが起きてしまうのかもしれない。

 ――この世間の価値観っていうものが、人を狭量にし、幸せそうに見える他人をやっかんだり、逆に他人の不幸を蜜の味に仕立て、人間を卑しくさせるのかもね。

 一部の女性らは「四条夫妻は子どものいない女性はかわいそう、結婚していない女性もかわいそうと思っている。四条夫妻は未婚の女性や赤ちゃんのいない女性を見下している」として嫌悪感を抱いているようだった。

 和江は四条夫妻のことを少し気の毒に思った。
 気遣いしたことで、かえって嫌われてしまった四条夫妻も『世間が良しとする価値観の犠牲者』かもしれない。

 ――とはいえ、あの夫婦はもともと人と距離を置いているし、今さら人に嫌われても痛くもかゆくもないでしょうけど……。

 そう、和江にとっても、どうでもいいこと。下らない問題だ。
 まだ正月呆けが残っている頭を振り、和江は仕事に戻った。

   ・・・

 終業時間となり、静也は帰途に就いた。
 外はとっくに夜の帳を下ろし、呼吸を止めたくなるような寒さだった。

 ――そうだ、自分は勘違いしていた。

 いつの間にか職場の空気に馴染んでしまい、警戒を解いたからこそ、人との距離感を測り間違えてしまったのだ。
 涼也の写真入り年賀状など、最初からなしにすべきだった……。

 今までだって、みすず先輩や女性職員、黒野先輩とでこうしたいざこざがあったが、あっけらかんと収拾していき、後に引くことはなかった。

 けれど今回は息子の涼也も絡んでしまったことで、静也も心がクサクサし、いつまでも囚われていた。

 ――正直、気分が悪いのはこっちのほうだ。

 シンシンと冷え込む空気は静也の心とリンクした。

 そんな後味悪い仕事初日であったが、それでも、帰宅した静也は家の中の温かい空気にホッと一息つく。

 ベビーバスで涼也を入浴させ、寝かしつけながら、さっそくこの『年賀状事件』のことを理沙に話した。本日のメインニュースだ。

「ええ? 男女分け年賀状、ばれちゃったんだ」
「まさか職場で年賀状が話題になるとはな。今までそういうことなかったから想定外だった」
「これで職場では嫌味な夫婦になっちゃったか。ま、仕方ないね」
「仕事に差し支えなければ、人にどう思われてもかまわない」
「そうだね~」

 静也と理沙はうすく笑い合う。
「さて、イヤなことは忘れて、ご飯にしようか」

 涼也の写真入り年賀状事件で冷や水を浴びたが「ま、世の中こんなもんだ」と思えば、不快さも薄れていった。
 昔に較べたら遥かに自分たちは幸せで恵まれている。実害がなければ、周りの人たちから嫌われようが、どうでもいいこと――これが四条夫妻の基本路線だ。

 この時、静也はふと思う。
 周りが敵だらけだと余計に自分たちの絆は深まる。自分の味方は少ないからこそ大事にしようと思える。
 そんな外的要素が夫婦の絆を確かなものにしてくれるのなら、それも悪くはない。

 凍りつく外気から遮断された我が家で野菜と肉がたっぷり入ったアツアツのビーフシチューを味わう。お正月は和食が続いていたので、久々の洋食はいつも以上においしく感じだ。牛肉がとろけるほどにやわらかい。
 ささくれ立っていた心もほぐれ、職場での嫌な出来事も頭の中から霧散していった。


 こうして――食事と後片付けを済ませた静也は浴室へ向かった。
 今日のお風呂は『松湯』だ。

 松は正月にふさわしい縁起物。真冬でも葉を茂らせるということで、長寿と健康の象徴になっている。松の花言葉は『不老長寿』だ。

 ちなみに正月に飾る門松は神の依り代いわば神が降りてくるための目印であり、歳神様を迎えるためのものだ。「神を待つ(祀る)=まつ」という語呂合わせから、松が使われるようになったとも言われる。

 浴槽の蓋を開け、さっそく『松湯』の入浴剤を入れる。
 本物の松の葉を煮出して作るのもいいが、今は涼也がいるので忙しく、そんなことに手間暇かけていられない。

 シャワーで体をザッと流した後、松湯に体を沈める。
「ぶはあ~」
 思わずため息が出る。血行促進、保温効果抜群。縁起が良いとされている松湯が静也をじんわりと包む。

 極楽気分で湯から上がり、体や頭を洗い、入浴を終えた。
 着替えて廊下に出るとヒンヤリした空気がまとわりつく。
 けれど体がポカポカなので、かえって気持ち良い。

 いつもの日課として、廊下の隅に置いてある鳥籠のカバーを取って、中を覗き、眠っている『ふっくら』『ぷっくり』のもっこりした白いお腹を拝む。
 文鳥たちは少しだけ反応するものの、そのままくちばしを背に埋め、眠りの体制を崩さない。

 文鳥たちも相変わらずかわいい。
 気分がほっこりしたところで、和室にいるベビーベッドにいる涼也の寝顔を覗く。
 家には幸せがあふれている。これで今夜は穏やかな気持ちで眠れるだろう。

 明日からは職場で女性職員たちからの冷たい視線が待っている。バリアを張り、分厚い壁とシャッターで武装し直さなければ……。

 今回のことはいつの間にか平和ボケしていた自分たちへの警告だったのかもしれない。

 ――そうだ、子どもの写真を……自分たちのプライベートを他人へ……外部へ晒すなんて、どうかしていた。

 幸せは他人に見せびらかすものではない。そっとしまっておくもの。
 祝福を受けようなどと思い上がりもいいところだった。反感と嫉妬を買い、不幸を呼び込むだけだ。
 他人の不幸は蜜の味。それが人間のデフォだ。

 そもそもネット全盛の時代に年賀状はもう時代遅れ。師走の忙しい中、面倒だなと思いながら義務で書いている人が大半だろう。送られてくる年賀状は年々たまっていき、結局、処分することになる。そう、涼也の写真入り年賀状だって、最終的にゴミとして捨てられるのだ。

 親バカぶりは家の中だけにしておくべし。 
 ということで正月早々、人間関係の面倒臭さに直面し、気を引き締めたのであった。

 

 

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