悩ましき桃の節句―マタハラババア
ひな祭りの雑学満載でお届けする短編連作物語「これも何かの縁」より「悩ましき桃の節句」――ついに理沙の妊娠が判明。けれど単純に喜べず?
そして番外編の『秋魚に乾杯☆お彼岸―アラフォー女子の幸せ』で主人公だった小林主任が登場。
※「秋魚に乾杯☆お彼岸~」はこちらにて↓
マタハラ問題勃発――静也VS小林主任。そこに、なんとあのフェミニスト・福田みすずが静也に加勢。そして相変わらずな黒野先輩。
独身アラフォー小林和江に黒い感情を抱き見下す静也。
――結婚できないアラフォーBBA。
では、以下本文。
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梅の花が香る3月初日の休日。
今までの寒さはどこへやら。淡い陽光が気持ちいいお昼時、理沙は自宅のキッチンで、ひな祭りの定番料理――ちらし寿司とハマグリのお吸い物を作っていた。夫の静也のリクエストでもある。
その静也は何かしら手伝おうと理沙の周りをウロウロしていた。そして時折、理沙のお腹に目をやる。
そう、ついに四条夫婦は『新しい縁』を授かったのだ。
理沙が妊娠していることが分かったのは、あの節分の日から数日後のこと。
吐き気を訴え、そういえば生理もまだないと言う理沙に、静也は「もしや、これはっ」と寒空の下、妊娠検査薬を買いに走り、速攻で自宅に戻った。
その検査薬を持って理沙はトイレに入る。そういえば『月のもの』もなかったっけ。いつも不順だったので、あまり気にしていなかったのだが。
結果は陽性。それを聞いた静也はこれ以上ないというくらいに顔をほころばせた。
そんな静也を見て「なるほど、破顔とはよく言ったものよね……」と理沙はぼんやり思う。
いちおう病院へ行って診断を受けるけど、妊娠は確実だろう。
でも――仕事はできるだろうか? 悪阻が酷ければ休むことになる。
何か不具合が起きたら……。出産は想像を絶するほど痛いと聞くし……。
理沙は嬉しさより心配が先に立った。体調の悪さも手伝ってか、ネガティブな感情に支配されてしまう。
これっぽっちの笑顔を見せない暗い表情の理沙を見て、嬉しくないのかと言いたげに静也は怪訝な顔をした。
「男はのん気でいいよね……」
理沙はため息を吐く。全く嬉しくない……何だかプレッシャーだ。
こういう時に助けてくれる母がいないことも大きかった。心細くてたまらない。ただただ不安だった。
「……これが噂のマタニティブルーというやつか」
喜びを分かち合えるような雰囲気ではなく、静也の気分もすっかりしぼんでしまった。
・・・
それから――理沙は悪阻で仕事を休むことが多くなり、その日も具合が悪くて、静也だけが出勤した。
昼休み。○○市役所の職員食堂で親子丼を口に運んでいた静也の耳にこんな声が聞こえてきた。
「度々休まれるとその分、こっちに負担がくるでしょ。妊娠出産・育児って私的なことじゃない? それなのに関係ない人にしわ寄せがくるのって、正直割り切れないのよねえ」
しゃべっているのは理沙と同じ課の小林主任だった。いかにも仕事ができそうなキリッとした感じの美人だけど性格がキツく一部の職員からは引かれているアラフォー独身女性だ。
一緒にいた女性職員も頷き、小林主任に同調している風だった。
これはマタハラだ。
しかも本人がいないところでこういったネガティブな空気を作るなんてタチが悪い……。
静也はちょうど席の近くを通りかかった小林主任に苦言を呈した。
「それ、うちの妻のことですよね? だとしたらマタハラになりますよ」
が、小林主任は待ってましたとばかりに言い返してきた。
「負担を押し付けられるほうは我慢しろって言うの? そっちに権利あるんなら、こっちにも権利があると思わない?」
また権利VS権利かあ……ゲンナリする静也だったが、そこに女性の権利にうるさいフェミニスト・みすず先輩の援護が入った。
「マタハラは女性への人権侵害です。社会問題化していることをご存じないんですか? うちの役所でも男女共同参画社会を勧めてますよね」
みすず先輩もランチをしていたようで、食器とトレイを片付けに席を立ったところだった。『セクハラ恵方巻き』の時には静也に一本取られたみすずだが、そんなことはさっさと水に流し、こうして女性の権利のために動いてくれるみすず先輩は結構『漢気のある性格』かもしれない。ってこれも『男>女』と捉えられかねない……女性差別的な表現になるけれど。
「マタハラマタハラって……仲間内で愚痴も言ってもダメなの? こっちはそこまで権利をはく奪されないといけないのかしら?」
小林主任は目をみすずに移した。
主任から見たら、静也もみすずも役職についていない若輩ものだ。
食堂内が緊張に包まれる。
とその時――
「理沙ちん、妊娠したんだって?」
この剣呑な空気を吹き飛ばすかのような場違いな声が響いた。
「お前ら、淡白そうに見えるけど、ちゃ~んとやることやっていたんだな」
ハンバーグ定食+かつ丼のトレイを持った黒野はガハガハ笑いながら、静也の席にやって来て、前後に腰を振った。
小林主任への反論の言葉はどこへやら、みすずは黒野をにらみつける。
「だからそれ、セクハラだから!」
「そういうことをデカい声で言わないでください」
ため息交じりに静也も注意した。いつものパターンだ……。
小林主任のほうは、騒がしい下品な闖入者に呆れた様子で顔を左右に振り振り、遠くの席へ行ってしまった。
・・・
「へえ、黒野先輩、相変わらずだね」
自宅で寝ていた理沙は相変わらず具合が悪そうだったが、仕事から帰ってきた静也の話を聞き、笑みをこぼした。
「んで、先輩ったら『お産の苦しみはオッサンには分からねえよな』ってつまらないギャグ飛ばして、周りのひんしゅく買いまくってさ」
静也は久しぶりに笑顔を見せてくれた理沙にホッとしつつもモヤモヤしていた。
理沙には黒野のセクハラ話だけして……小林主任のマタハラについては触れなかった。
あれから結局、黒野のおかげでマタハラの件はうやむやになったものの、理沙の妊娠は祝福されるどころか迷惑だと思われている――そのことを知り、静也は心が冷えた。
――ひょっとして小林主任は理沙に嫉妬しているのか。自分はまだ結婚もできず、あの歳ではもう出産の可能性も低い。いわゆる負け犬ってヤツだな。かわいそうなババアだ。
そう心の中で小林主任を見下し、静也は憂さを晴らした。
・・・
悪阻期間が過ぎて体調も落ち着いた3月、理沙はやっとキッチンに立てるようになった。
理沙がお椀によそったお吸い物を食卓に運びながら、静也はいつものごとくうんちくを語る。
窓から入ってくるそよ風に、ハマグリのお吸い物の湯気がほんわかと揺れる。
「ハマグリは2枚の合わさった貝殻以外、ほかのハマグリの貝殻と合わさることはないんだってな。で、そこからハマグリの料理には絆の深い夫婦になれますようにっていう願いが込められるようになったんだ」
「へえ」
ならば、ぜひともハマグリにあやかりたい。
静也の話に理沙は相槌を打つ。
悪阻で苦しんでいた時、静也は何もできないながらも早く帰ってきて、理沙を見守ってくれた。嫌な顔もせず、理沙の愚痴につきあった。
本当のところ、仕事から疲れて帰ってきた上に妻の愚痴など聞きたくないだろう。
ネットなどで見聞きする話では――わざと遅く帰り、妊娠中の妻から逃げる夫もいたり、あるいは夫のほうが「オレだって仕事で疲れているんだ」と爆発したり、お互い「どっちが、より大変か」で喧嘩になるケースもあるんだとか。
相手が自分よりラクしていると思うと許せなくなる。
そこから夫婦の亀裂が生まれ、せっかく結んだ縁がほどけていく。
相手を思いやるというのは、けっこう難しい。
それは自分に余裕があってこそできるものなのかもしれない。
静也って意外と器が大きいのかも……と理沙はちょっと尊敬してしまった。静也がいれば、出産育児も乗り越えられると気もラクになってきた。
静也の器=貝殻に合わさるように、気持ちを大きく持ちたいものである。
「イクラに海老入りか、豪勢だな」
ハマグリのお吸い物のほか、食卓に並んだちらし寿司に静也は笑顔を見せた。
ちらし寿司は甘酢の寿司飯に卵の黄色、菜花の緑を添え、人参やイクラや海老の紅色が混ざり、春らしい彩にあふれていた。甘辛に煮たレンコンや椎茸も入り、なかなかの健康食でもある。
「んじゃ、雛祭りを祝して」
「いただきます」
3月3日は『桃の節句』と呼ばれ、雛人形を飾り、菱餅、白酒、桃の花を供え、娘の幸福を願うお祭りとなっている。
――ちなみに節句とは、季節の節目にお供え物をして、実り多き豊かな暮らしを願う日本の伝統行事のことだ。
菱餅の紅、白、緑の三段重ねの色は、それぞれ桃の花、白酒、草餅の色を表し、紅は『花が咲く』、白は『雪解け』、緑は『新芽が吹く』と春の訪れをイメージしているという。
その菱餅を切って揚げたものが本来の雛あられ。
昔、野外で雛遊びを楽しむために持っていく携帯用のお菓子として、菱餅を砕き、炒って作られたのが始まりだ。
草餅に入っている蓬は『邪気を祓う力がある』と信じられ、桃も魔除けとして使われていた。
この風習の由来となる大昔の中国では、桃の葉の湯に入ったり、桃の花を浮かべた酒を飲んだりして、無病息災を願っていたようで、旧暦3月3日には川で手足を洗って厄払いをする習慣があり、それが日本に伝わった。
そして、その風習はやがて、人形に禍いを背負ってもらい、その人形を川へ流す『流し雛』に変化し――
江戸時代に入ると、人形を飾って子の幸せを祈るスタイルになっていくのだ。
ちらし寿司を頬張りながら、静也はそんな雑学を理沙に披露していた。
「菱餅の形は心臓を表していて、娘の健康を願う親の気持ちが込められているんだとか……」
と、ここまで話して、ふと静也は黙り込み、理沙のお腹を見つめる。
「どうしたの?」
「……子ども……女かな……男かな……」
「さあ。分かるのはまだまだ先だよ」
「女の子だったら……」
「雛祭り、盛大にやりたいよね。ま、うちは狭いから雛人形の段飾りはできないけど」
「……雛人形はずっと出しっぱなしだな」
「え?」
「嫁き遅れ、上等……」
「生まれてもいないのに気が早いんじゃ……卵子が老化していくから、早く子どもを産んだほうがいいと言っていた人のセリフとは思えないなあ」
「……いや、その……結婚したからって幸せになるとは限らないし……ヘンな男と結婚するほうが不幸だよな」
ボソボソと言い訳をする静也に理沙は痛いところを突く。
「孫の顔は拝めなくてもいいわけ?」
「……」
「ま、嫁にいってもいかなくても、どっちもありな今の日本に感謝だよね」
やれやれとばかりに理沙はハマグリのお吸い物をすする。
すると突然、静也はヘンなことを言い出した。
「……キリスト教、信じたい」
「へ?」
「男なしで子どもを産んだマリアの話は素晴らしいよな」
「……」
いつも科学的で論理的な思考をする静也の言葉とは思えなかった。娘はここまで父親を狂わすのか……って、まだ女か男かも分からないのに――
理沙は苦笑する。
「息子なら結婚が早くても遅くても気にならないわけ?」
「まあな」
「けど、息子のお嫁さんは孫を連れて遊びに来てくれないかも。やっぱ舅姑には気を使うから、足が遠のくよね。嫁にいった娘のほうが孫と一緒に実家に遊びに来てくれると思うよ」
「となると……息子と娘、どっちがいいんだろう」
いや、悩んだところでどうしようもない問題なのだが……
静也もちらし寿司を頬張っているうちに、男でも女でも無事に生まれてくればそれでいいという気持ちになっていったようだ。
そして昼食後――
静也と理沙は商店街へ買い物がてら、神社に立ち寄り、安産祈願のお参りをした。ちょうど梅の花が真っ盛り。
やわらかい日差しの中、散歩を楽しみながら買い物を済ませ、近所の和菓子店で草餅を買い、日本茶と共にいただく。
その後、市販の入浴剤で、美肌効果があるという桃湯を作って、のんびり入浴。
夕飯は鰤(ブリ)の照り焼き、菜花の胡麻和え、椎茸と里芋と人参の煮ころがし、ハマグリの味噌汁と、体にやさしい料理を味わった。
桃の花を見かけなかったのが残念だったけど、春の穏やかな休日を満喫した二人だった。
※次話
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