これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

不幸にならない秘訣☆だからこそオタク道・他者に無関心なオタク VS 関心あり過ぎてマウンティングする人

今まで、いかにオタクが世間から嫌われているかを語ってきた。 

が、視点を変えれば、オタクって意外と幸せかもしれない。

あれだけ世間から害悪視され、「モテなくなるよ」と脅されても、「気持ち悪い」とけなされても、オタクは減るどころか増えている気がする。オタク文化はいっそう栄え、海外にも広がった。

それでも未だオタクは負け組扱い、ランクも下位に位置づけられているが、この厳しい世の中を渡るには、他人が何を言おうが我が道を行くオタク精神が役に立つかもしれん。今回はそのことについて語ろう。

目次じゃ!

オタク的幸せ人生

不幸にならない生き方を目指せ

なんかさ、世間の価値観から離れないと不幸になる気がするよなあ。

いや、世間の価値観に合っている人はいいけれど、合わない人はただただ劣等感を募らせ、どんどん心が不健康になっていくように見える。
心が壊れたり歪んだりすると厄介。不幸への道、まっしぐら。

そう、幸せになることを考えるよりも先に「どうしたら不幸を回避できるか」を考えたほうがいいかもしれない。

ワシも世間からの外れ者じゃが、夢中になれるものがあって幸いだったと思う。劣等感はあったけど、そいつを忘れされてくれるくらいに夢中になれるものがあった。なのでとても楽しかった。

そう、オタク道のいいところって『独り』で楽しめるところ。

世間は独りでいることを良しとせず「かわいそう、寂しそう、不幸だ」とネガティブに捉え、あげくのはてにサイコパス扱いするけれど。

※ちなみにサイコパスとは――反社会性人格障害(APD)。サイコパスの特徴は極端に自己中心的で、慢性的な嘘つきで後悔や罪悪感が 無く、冷淡で共感がない――と言われる。

そんなオタクは――過去、おそらくサイコパスだったのだろう幼女連続殺人犯・宮崎勤と同一視され、有害視されてきたっけ。

世間の価値観に合せようとしないことから反社会的・自己中心的と思われ、協調性に欠いていることから「共感力がない」と受け取られるのかもしれないな。

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独りで我が道を行け

周りの人たちと合わないなら、無理して合わせて仲よくする必要はない。合わせようとしても、おそらく失笑を買うだけだ。
その代わり、人間関係の中において「無視される」「相手にされない」のは仕方ない。割り切るしかない。

集団の中での『ぼっち』は、なかなか堪えるだろう。

それでも――世間の「一人でさびしそう、かわいそう、ダメ人間、どこか偏っている、人間としておかしい、歪んでいる、不幸」という意地悪な目さえなければ、「独り上等」「独りでも平気」っていう人は意外といるのではないだろうか。

ワシは『誰にも邪魔されない一人の時間』が絶対に必要な人間である。

オタクもそういう感じだと思う。
一人で好きなことに没頭できる『一人の時間』が大切なはずだ。

もしも――『皆から無視される代わりに一人の時間がたくさん得られる』のと、『皆とつきあう時間のために一人の時間が大幅に削られる』のと、どちらかを選べと言われたら、ワシなら無視されるほうを選ぶ。

今現在、無視されたり、仲間外れにされたりして、辛い思いをしている人よ、それだけは耐えるしかないかもしれん。周囲に認められたい気持ちもあるだろうが、まずは一人で好きな道を行くのじゃ。

不幸にならない秘訣は『他人に無関心』

というわけで――集団の中の独りぼっちは、辛いだろうけど、それはそういう価値観に縛られているからにすぎん。

「合わせる努力をしろ」と言う人もいるけど、その「合わせろ」というほうはそんなに偉いのかよ、とも思う。

え? 話し合って理解し合おう?

話し合いとは、同等の立場にいる者同士で成立する解決方法じゃ。
すでにランク付けがされており、こちらが下位で相手から見下されている場合、『お互いを理解し合う』は、あり得ない。
強者の価値観や考えがまかり通るだけで、下位は一方的に合わせろってことになる。

さらに、これが『集団VS個人』もしくは『多数VS少数』だったとすれば、個人・少数派はあまりに分が悪すぎる。

大多数の人が持つ一般的な価値観を無視するって、けっこう大変じゃ。
でも、それが無視できたら、おかしな劣等感に縛られず、もっと自由にラクに生きることができるかも。

合わない空気の中で無理してつきあうことはない。自分の時間を自由に使えばいい。

なんか、いろいろジャッジする世の中(生き方、社会的ステータス、収入、容姿、彼氏彼女の有無、友人の有無、未婚か既婚か、などなど)に接していると疲れるよね。

ランク付けが好きで何かと他者をジャッジする人は、他者のことがとても気になる人なのだろう。
反対に、ジャッジしない人はわりと他者に無関心だ。マイペースであるとも言える。

自分は自分、人は人。そういう距離の取り方ができれば、人間関係において少なくとも不幸にはならない気がする。

他人と較べ、他人を気にすると、どうしても周りのケチな勝敗・順位にこだわってしまい、マイナスに働く。

ならば、いっそうのこと他人に無関心でいたほうがいい。
世間はそれを「さびしい」「冷たい」と眉をひそめ、「人との関わりを大切にしよう」と言うけれど。

劣等感を刺激され、他者を蹴落としたい、他者の不幸を願ってしまうのも、また人間の性。

ネットでは、人の生き方を批判している内容のものをよく見かける。
世間の価値観に縛られているからこそ、自分の生き方に自信が持てず、他者を批判することで自己承認欲を満たしているのかも。
あるいは、世間の価値観に縛られている自分の生活がとても大変なので、ラクそうに見える人の生き方が気に食わず、見下すことでストレスを発散しているのかも。

その点、我が道を行くオタクは気楽じゃ。
(お気楽に見える上に、他人の目を気にしなさすぎ=他人に合わせようとしないので、世間様から眉をひそめられる存在になってしまうのかもしれないが)

うむ、ワシは思いましたぞ。
『マウンティング・見下し見下されの人間関係』『カースト』は、他人を気にする人が作るものじゃ。

そう、他人に関心を持ちすぎるがゆえ、かえって心が歪む。

もしかしたら自分の世界に引きこもり自己完結型の性質を持つオタクは、世間が決めるランクや他者からのジャッジを気にして順位を上げようと必死でいる人よりも、意外と幸せかもしれない。

つうか、楽しいことやっていれば、夢中になることがあれば、他人のことなんて気にならないよな。

他人のことが気になる人って、あんまり幸せじゃないのかも。

生活さえ成り立てば、引きこもりも悪くはない、むしろ自分の身を守る手段となるかもね。

他人に無関心――これこそ、今の世を生きる知恵かも。

厄介な承認欲求

とはいうものの、他者からの承認を求めてしまうのもまた人間。

他者に無関心でいること=他者へ期待しないこと=他者からの評価を気にしないこと……なんだけど、これがなかなか難しい。もともと人間は社会的な動物で、社会=周りの人間を気にする生き物だから。

そもそも他者に認められたい欲求は、太古の時代から社会を作り上げてきた人間の本能にあるのかもしれない。 

承認欲求から解放されれば、劣等感からも解放され、どんなにラクになることか。自分に価値があるのかどうか、生きている意味があるのか、なんて仕方ないことを考えずに済む。

『他者への無関心』は他者をジャッジすることも、他者を見下すこともなくなる。他者と距離をとることで、不幸になることもなく平穏に暮らせる。強すぎる承認欲求は不幸を呼び寄せる。

とはいうものの『他者への無関心』は『孤立』ともつながってしまうわけで、孤立すると誰からの助けも借りられず、自滅へとつながる。承認欲求をゼロにするのは不可能。たぶん人間の本能がそうさせている。

うまく承認欲求を飼い馴らせるといいよね。

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