これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

10月10日はドラムの日☆体罰容認派VS反対派・トランぺッター日野皓正の中学生ドラマービンタ事件

10月10日はドラムの日。

うむ、ドラムというと……トランぺッター日野皓正氏の、中学生ドラマーへのビンタ事件を思い出す。

本番の舞台上で、指揮者の日野さんが止めようとしたにも関わらず、無視してドラムを叩き続けた中学生。
その中学生を日野氏がビンタしたことがニュースに取り上げられ、大騒ぎになった。

今回はそのことについて振り返りつつ、体罰・教育について考えてみよう。

※その後、世田谷区の教育事業の一環として運営されているドリームジャズバンドは存続、コンサートも開催されている。しかしツイッターの『ドリバン』アカウントは鍵がかけられたままだ。

目次じゃ!

日野皓正の中学生ドラマービンタ事件

体罰容認派VS体罰絶対反対派

被害者とされる当のドラマーの中学生はビンタされたことを納得している様子だった。

件の男子中学生曰く――日野さんはユーモアもすごくって、それでも『いけない』と思ったことにはガッツリ叱って、根本から変えてあげようという愛があると思います――とこのように明るい声で応えたらしく、言わされている感はなかった様子。凹んでもいないようで、ある意味、大物だよな。

件の男子中学生は、ビンタされたことを納得しており、日野さんを恨んでいないし、特に傷ついてもいないようだ。

もはや被害者はいないこの事件。が「これを許しては体罰が容認される社会になる」と声高に主張する体罰禁止派の人たちもけっこういた。

僕は日野皓正氏を断罪する。そして日野皓正氏を擁護する人達を断罪する。この件は日野氏と当の中学生という個人間の問題ではない。世田谷区という公的な立場の出すメッセージが最も重要であると考える。今回の問題で一番のキーパーソンは世田谷区長の保坂展人氏である。

音楽ライター・高橋健太郎氏の世田谷区長へ充てられたツイート。
https://twitter.com/kentarotakahash/status/903635552632586241より。

今回のことの最大の問題は、区の教育イベントの場で公然と暴力行為が行われたこと。それが社会的に容認されるならば、他の教育現場にもそれは広がり、より深刻な例を生み出すだろう。

日野皓正というミュージシャンにそれを理解させるのは無理だろう。オレとアイツの関係ならば許される愛のムチとしか考えていない。だが、それを許せば、いつかどこかで子供が死ぬ。

山口貴士弁護士のツイート。
https://twitter.com/otakulawyer/status/904385491696418817より。

日野皓正の暴力は、法的に正当化する余地はないし、冤罪リスクもないので、粛々と捜査して、刑事責任を問い、指導や教育を口実にした恣意的な暴力が許されないことを示すべき。暴力が許されるというメッセージを発することが青少年に与える悪影響はエッチな漫画や暴力的なゲームの比ではない。

ということで……体罰絶対禁止派の人たちの気持ちはわかるが、ケースバイケースとしか言えないよなあ。

学校教育法では体罰禁止されているが、学校と関係ない場所での体罰は違法行為にはならないのだろう。
また、学校教育法でも罰則はないとのことで、よほどの暴行でなければ罪に問えないようだ。

なので、体罰禁止派の人たちは、自分もしくは自分の子どもがやられたら、たとえ軽い体罰でも暴行罪として訴え、慰謝料を請求すればいい。体罰する教育者は少なくなるはずだ。
体罰容認派をなじっても仕方ない。

体罰教育―善悪ではなく好き嫌いの問題?

誤解なきよう。ワシ個人は、暴力は絶対に許さない派である。
が、例外が一つだけあった。

音高時代のワシは、ピアノの先生から度々、頭を叩かれていた。
が、別に恐怖も感じなかったし、スキンシップのようでもあり、それはそれで受け止めていた。ほかの弟子も叩かれていたし。叩かれてもさほど緊張した空気にはならず、受け流せる程度のものだった。頭を叩かれようが、その先生のことは慕っていた。

そう、結局、善悪ではなく好き嫌いで決まる? つまり、やられた方がどう思うかで決まる。イジメやセクハラと同じ。

もし体罰を『絶対悪』とするなら、罰則を設けた法をつくればいい。
もちろん親子間でも許されず、子に体罰した親も罰しないとね。

追記――その後、体操界で女子選手が男性コーチから体罰=暴力を受けていたとし、問題になったが、当の女子選手とその家族はコーチの体罰を容認しており、女子選手は引き続きコーチと共に歩んでいきたいと表明。しかし、体罰(暴力)動画が公開され、その酷さに「女子選手はコーチから引き離すべき」「これはDV夫婦と同じ」「女子選手は洗脳されている」という意見も多数あり、体罰を受けた側の意思は尊重されるべきかどうか、難しい問題となった。

『自由』を勘違いしている人たち

この件で、様々な人の考えや意見を見聞きしたが、まず違和感持ったのが、一部の自由大好き人間たちが『日野さんが、ルールを逸脱した自己中心的な中学生を止めようとしたこと』をも批判したことだ。

こんなツイートがあった。
https://twitter.com/cnvvlty/status/903403824223682560より。

オトナはやっていいけど、子どもはジャズっちゃだめなのが、ニッポンの国家音楽。国家体育と同じ。指示に従って整然と死地に赴くのです。

いや、ジャズは「自由な音楽」といっても、自由=無制限とは違う。
音楽にも『約束事』があり、アンサンブルするなら『調和』も必要。
皆が自由に勝手気ままに音を出していたら、ただの騒音。

そしてコンサートには時間制限がある。
無制限というわけにはいかない。

で、大人は自由にやっていいけど子どもはダメなのか?って、そりゃ当たり前だ。
指導者でもありプロの日野さんと、指導を仰ぐ立場の中学生は同格ではない。
その代わりコンサートの責任は日野さんが持つ。子どもは持たなくていい。

 

自由は責任とセット。
責任を持たなくていい者は、自由が制限されて当然なのだ。

指示に従うのが嫌なら、最初から指導を受けるべきではない。日野さんのコンサートに参加すべきではない。

自由にやりたいなら、日野さんの力を借りず、自分で会場を借り、資金を集めて、集客すればいい。

その世界のプロの大人と、社会人にもなっていないアマチュアの子どもが同格である、という甘い考えをしているから、おかしくなるのだ。

自由にやりたきゃ、自分たちの力で、自分たちの責任でもってやろうぜ。
コンサートを企画し、集客するのがどれだけ大変か……。それができてこそ、自由にふるまえるのだ。自分の好きに演奏できるのだ。

自由に逸脱するってカッコいいことだと、責任が取れない子どもに勘違いさせるのは罪である。

自由は強者のもの・ルールは弱者のためにある

「暴力をふるった日野さんも悪いが、日野さんの注意を無視して延々とドラムを叩き続けた自分勝手な中学生も悪い」といった「どっちもどっち」という意見に対し――

「中学生は一つも悪くない。悪いのは日野さんだけ」という『中学生擁護派の人』は――「そもそも逸脱し自由に演奏するのがジャズだ」とのことで、『順番待ちをしていたまだソロをやっていない=スポットを浴びていない、後に控えていたほかの子どもたち』については「順番を待っているのはジャズではない。もっと自己主張をすべき」という論を展開していた。いやあ、自由って、強い者勝ちなんだよね。
弱い者は損をする。弱い者は救われない。

この場合は、気の弱い子や消極的な子はスポットライトを浴びることができない。

けど、教育としてそれを良しとするのかどうかだ。
『自己主張の強い暴走する子』を支持するということは、『気の弱い子を犠牲にしていい、気弱な者は放っておけ』ということになる。

そういう気の弱い子はアマチュアとして参加する『自己主張の強い音楽=ジャズ』をやる資格はないのか。
けど、なぜかこういう人たちって『弱い者にも権利を』と主張したりする。

 

この人たちの主張する自由って何だろう?

尾崎豊の『盗んだバイクで走り出す~♪』を思う。
自由を求めて思うままにバイクを走らせる『オレ』は気持ちいいだろうけど、バイクを盗まれた人はかわいそう。自由の犠牲者だ。

ルールのない無制限の自由って厳しい。強者しか生き残れない。弱者は損するだけ。だから、ルールがあるのだ。

そのルール・枠組みを決めるのは、この場合は責任者である日野さんである。
よって、日野さんが決めた枠からはみ出すことは基本的に許されない。たとえ『自由なジャズ』であっても。

え? それじゃあ、そこは日野さんが支配する『日野さんの村社会』だって?

うん、だから、その村社会が嫌なら出ていけばいいだけの話。
出ていく自由はあるんだよ。出ていく自由がなかったら問題だけどね。

で、自由にやりたければ、自分が責任者になればいいのだ。

この事件の問題は『日野さんが体罰してしまった』――この一点に尽きる。

それでも「体罰があっても日野さんについていきたい、日野さんの指導を仰ぎたい」というのが子どもたちの希望であれば、「それもあり」とするのかどうかってことだ。

難しい問題だけど、それが教育というものなのかも。黒白がなかなかつけられず、ケースバイケースとなる。

が、ケースバイケースも許さないとなると、それはそれでその「自由とやら」がなくなってしまうのでは?

なので、各自が好きなほうを『自由に』選べるようにすればいいと思う。そして気に入らなかったら、すぐにそこから離れられる=出ていけるようなシステムにすればいい。

※学校の場合、自由に離れることができないので、体罰禁止で統一するしかないだろう。

選択権を与えること、それこそが『自由』につながるのでは。

つまり、日野さんを支持している人がいる限り、日野さんのこのイベントは続行してもいいのでは、というのがワシの結論。

「日野さんの下で指導を仰ぎたい」とこのバンドを続けたい子どもたちがいる限り、関係のない外野があれこれ口をはさむことはない。

※その後、体操界で起きた女子選手に対するコーチの体罰問題――殴られていた女子選手とその家族はコーチ解任に反対であり、コーチと共にこれからもやっていきたいと希望している。コーチが反省し二度と殴らないことを約束した上でなら、いいのではないかと思う。

声高に正義を主張する人(このイベントをつぶすべき、日野さんを降ろすべき、ドリームジャズバンドを解散させるべきだとし、イベントを企画した世田谷区・教育委員会を責める人)こそ、自分の意見や考えを押し付けているように思う。

何といっても、体罰を受けた当の中学生とその親御さんが日野さんと和解をしており、被害者がいないこの事件で、無関係の第三者がそこまで介入できるのか?

ドリームジャズバンドの中学生たちにとって、つい感情的になって中学生をビンタした日野さんと、バンドをつぶそうと動く正義な大人たちと、どっちが横暴に見えるんだろう?

そう、一番大切なのはドリームジャズバンドの中学生たちがどう考えているのか、これからどうしたいのか、だ。

体罰を絶対に許さないという社会正義が、日野さんのドリームジャズバンド存続を希望する中学生たちの願いよりも上位にくるのか?

社会正義って何だろう???

※世田谷区長のコメント

老害

日野さんの体罰容認の考え方を全否定する人の意見で、日野さんのことを老害呼ばわりしているのをよく目にした。

日野さんの世代の価値観からすれば体罰は『場合によっては必要』『愛のムチ』と考えてしまうのだろう。自身も体罰を受けて育ったのかもしれない。

体罰絶対禁止派は、その日野さんの育ちや価値観を、場合によっては人格までも否定する。

そのうち、ワシも歳を取り、価値観が世間とずれて(いや、今もずれているし、外れ者なんだけど)、何か社会的な活動すれば、きっと老害呼ばわりされるのだろう。
そして、育ちも否定される。「昔と今は違う。昔の価値観を持ち出すな。お前は間違っている」ってね。

あまり、しゃしゃり出ないようにしないとなあ。
古い考えの老人は社会の片隅でひっそりと暮らさねば。
古い価値観は、今の世の中では『邪魔』ということで。

ワシは老害になる前に安楽死したいよなあ。社会の皆さまに迷惑をかける前に。
正義の人たちが日野さんに投げつける『老害』という言葉にそんなことを思ってしまった。

怖い先生のメリット

音楽界において、怖い先生の緊張させられる厳しいレッスン。

そのメリットとは、何と言っても『本番の怖さ』を知ることができる点だ。
練習通りにいかない緊張した中で、自分はどれくらい弾けるのか(演奏できるのか)分かる。中には「レッスンの方が、本番より緊張する」という人もいる。
怖い先生は、本番で緊張した中で演奏する精神的強さを養ってくれるのだ。

そうそう、昔、テレビで見たんだけど、ヴァイオリニスト五嶋龍氏の母・節さんのレッスンは厳しかったよな。
とにかく、言葉がキツかった。当時、幼かった龍君が泣いていたシーンもけっこうあったりした。

今の日本社会の中では、あれも虐待と見なす人もいるだろう。
けど、あの厳しさがあったからこそ、今の五嶋龍氏がいるのかもしれない。

ドラマーを描いた映画『セッション』

このビンタ事件で、映画『セッション』のことを知った。


鬼教師と、才能を開花させるドラマーの話。

ドラマーは血を流しながら練習。血染めのスティックがうなる!

そんな『セッション』ラストは――
鬼教師を無視して暴走するドラマー。その演奏シーンがすごい。暴走演奏に鬼教師も魅了されていく。

まさか……例のドラマー中学生、これを意識していたとか?


Whiplash Amazing Final Performance (Caravan) (Part 1) | Whiplash (2014) | 1080p HD


Whiplash Finale (Caravan) (Part 2) | Whiplash (2014) | 1080p HD


うむ、師匠と弟子の狂気というと、曽田正人のバレエ漫画「昴」ローザンヌ編)を思い出す。