これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

運動会でのお弁当は教室で☆親が来られないかわいそうな子への配慮?☆学校の同調圧力

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食欲の秋・スポーツの秋ですな。今の時代、学校の運動会・体育祭は春に行うことも多いけれど、ワシの学生時代は秋に行っていたっけ。

そこで運動会に因んだ話をしつつ、学校教育について考えてみよう。

※運動会の組体操・教育をテーマに様々な視点から人間模様を描いた朝比奈あすかの小説『人間タワー』も紹介する。

目次じゃ!

学校教育・いじめと同調圧力

かわいそうな子への配慮

中学時代の運動会では――うちの学校は、いつもの学校の昼食と同じように教室で食べるように、というシステムだった。たぶん、親御さんが来られない生徒に配慮してのことだろう。

今でもよく分からない。皆同じに、そして皆と同じではない『かわいそう?な人』に配慮して、というのがいいのかどうか。

ワシの行っていた中学は給食はなく、お弁当だったが……弁当だって、家庭によっていろいろと中身に『差』があったはず。この差についてはどう考えていたんだろう?

運動会については、さすがに「皆同じ。皆で一緒にゴールしよう」ということはなかったが。

けど、クラスによっては運動音痴の子が迷惑がられたりして、イジメの温床になるケースもある。

いや、運動会だけではない、修学旅行だってグループから弾かれて、辛い思いをする子がいるだろう。

かわいそうな子』はどのケースにでも存在する可能性がある。

ならば、いっそうのこと「運動会や修学旅行をやめよう」がいいのか。これらはイジメられている子、ハブにされている子にとっては辛い行事だ。

ま、ワシの中学校では、仲の良い生徒同士でグループを作ることは許されず、教師らが出席番号や席順決めた班でグループを決めたけれどね。

そうすれば、クラスから弾かれている子、友だちがいない子の心は少しだけ救われるだろう。

今の時代ならば、そんな辛い学校行事など休んでしまえ、という考えもありだと思うけれど。

恵まれない子への配慮、イジメられっ子の配慮、難しい問題である。

参加自由にし、参加義務をなくしたら、どれくらいの生徒が学校行事に参加するだろうか?

参加自由にしてしまうと、クラスの結束力がなくなる? けど、その結束力が同調圧力を生んでいるのかもしれない。

皆同じがいい・女子も含めて皆で坊主

こんな話を思い出した。

とあるアメリカの学校にて――白血病の女子生徒が抗がん剤治療のため、髪が抜けてしまった。それでも復学できるほどに回復したが、髪は抜けたまま、坊主頭姿。

そこで女子生徒の所属するクラスメイトが全員、女子も含めスキンヘッドにして、白血病の女子生徒を迎えたという。

その『美談』は、三船美佳主演の邦画『友情・フレンドシップ』として日本の学校に置き換えられ映画化された。

けど、私は違和感を覚えた。

『坊主頭をかわいそうだ』とし、かわいそうなその子に合わせて、女子を含めクラス全員が丸坊主にすることが、その子への配慮=友情となるのか? その中には本当は坊主にすることが嫌だった子がいたのではないか? 同調圧力がかかったのではないか? 皆同じ姿になることが配慮なのか?

※そのことについては、こちらの記事で語った↓

本当は『皆、それぞれ違うこと』『差があること』をお互いに受け入れるのがいいのだろうけれど、それは難しいことなのかもしれない?

朝比奈あすかの小説『人間タワー』

そうそう、運動会といえば――朝比奈あすかの小説『人間タワー』がおもしろい。おすすめじゃ。

人間タワー

人間タワー

※内容【無数の人々の思いを巻き込んで、想像を超えた結末が訪れる…組体操をめぐって展開する人間たちの物語】

そう――運動会の花形・組体操。その中のさらなる花形といえば高い高い人間ピラミッド

皆一緒に協力し合い、一つの演技を成功させる。素晴らしいことだ。練習する間に生徒同士の絆も深まり、教育上プラスになることも多いだろう。

けれど、重いし痛いしで一番下の子は大変。上に登る子も落ちたら危険。

生徒全員が強制的に参加させられる中には組体操が嫌な子もいる。崩れれば怪我をするかもしれない。そのリスクを子どもに背負わせるのか? 組体操が嫌な子にとっては理不尽なことである。

――といったことを、いろんな視点(組体操を楽しみにしている親御さんや近所の方、組体操をやりたい子、やりたくない子、危険だから反対している親御さん、熱心な先生、覚めている先生)から物語が紡がれる。

「参加希望者だけがやる」という自由はない。たいてい『皆、一緒に』だ。同調圧力がかかる中、我慢してやらせることも教育なのか、それとも嫌がる子に無理させてやらせるのは問題があるのか。

どのように配慮すればいいのか、だよなあ。

運動会にしろ、修学旅行にしろ、友だちとの絆がより深まりいい思い出になる子もいれば、嫌な思いをして心に傷を負ってしまう子もいるわけで。これはもう人それぞれ。だから難しい。

友だちの存在

閉鎖的な教室・プラス面マイナス面

小学校から高校までクラスというものがあり、長期間長時間、同じ面子で過ごさなくてはいけない。閉鎖的でイジメが起きやすい環境にある。人間関係・友だち関係でつまずくと厄介。『ぼっち』になったら居たたまれない。

一方、授業ごとに面子が違う大学では、陰湿なイジメは起きない。

じゃあ、クラスを解体したほうがいいのか?

同じ面子と長期間長時間一緒に過ごすことによって、仲間意識・友情が芽生え、固いきずなで結ばれるといったプラス面もある。そして、それはいい思い出にもなり、人間関係を築く勉強にもなり、社会性とやらを養うことになるのだろう。

クラスという縛りがないと、かえって友だちをつくることができない、といった子も出てくるかもしれない。

同級生という存在は、子どもの成長に大きな影響を及ぼす。親や教師・先生には教育できない何かを教えてくれる。

友情を歌った合唱曲『ともしびを高くかかげて

ワシも中学時代・高校1年の時はクラスに恵まれ、それなりに楽しく過ごせた。その頃はまだ『友情』というものに憧れ、信じてもいた。『ともしびを高くかかげて』という友情を歌った合唱曲も大好きじゃ。

NHK合唱コンクール『第41回』をクリック、高校の部で『ともしびを高くかかげて』が聴けるよ。

今、聴いてもいい曲だよな。
中学時代、校内合唱コンクールの課題曲でもあった。(ハヤシは伴奏を担当したぞ)
ただ、男性パートは音がとりづらそう。普通の男子中学生にはちょっと歌いづらいだろうな。
それでも、セミプロの大人の合唱団が歌うものよりも、生徒らが歌うもののほうが、なぜか感動する。
そう、この曲は友情を素直に信じられる年頃の子どもが歌うからいいのだ。

おそらく多くの子ども・生徒は「友情」というものを信じたいだろうし、この「ともしび」の歌詞にあるような世界に憧れると思う。

「他人の不幸は蜜の味」と反対の世界を歌った『ともしびを高くかかげて』のような、
篤い友情で結ばれた友に恵まれ、幸せな学校生活を送っている子もいるはずだ。

それでも昨今のイジメ問題を見ると、友だちなんていなくてもいい、閉鎖的な息苦しい教室から逃げていい、勉強はどこでもできる、という考えがあってもいいかもしれない。

歌詞にある「幸せがきた時は(友だちに)見せに行こう」を気遣いなくできる子や、純粋に喜びを分かち合える友だちがいる子はどれくらいいるのだろう。友だちは嫉妬心を抱かずに心の底から喜んでくれるだろうか。

何はともあれ、子どもによっては学校は害悪にもなりかねない。けど、やっぱり社会性を身に着けるには、人間関係を育むには学校が一番。同年代の子がたくさん集まる場所は学校だ。いいことも悪いことも、理不尽なことも経験しておかないと、社会に出てから苦労する。難しいの~。

※関連記事

 ※物語『これも何かの縁』よりイジメ・友だちをテーマにした物語はこちら。