これも何かの縁

ピアノとマンガの道を歩んできたハヤシのエッセイ・イラスト・物語集

家族愛?臓器移植もの『私の中のあなた』☆友情?女子生徒も丸坊主『フレンドシップ』

今まで感動系物語について語ってきたが――
反対にまるで感動できなかった、いや気持ち悪かった『感動系作品』について綴ってみよう。

目次じゃ!

家族愛?『私の中のあなた』

生体腎移植・ドナーになるよう娘に強要する毒親

まず小説『私の中のあなた』について――「姉を助けるために腎臓をあげろ」と迫る母親を14歳の少女が告発するところからこの物語は始まる。

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以前、産経新聞にて――
生体腎移植で、妻が夫に腎臓を提供することになり、一度は同意したものの、実は夫側から圧力があり、妻はほんとうは提供したくなかったということで移植は見送った、という内容の記事を見た。

ドナーとなる人の本当の意思を尊重しなければいけないし、ドナーになるよう圧力がかからないようにしなければいけないけど、実際、どうなのだろう? ドナーになるのを嫌がったら「冷たい」と非難の空気があるのかもしれない?

テレビドラマなどでは、こういった生体臓器移植がテーマな場合、家族が快くドナーになり、手術は成功、ハッピーエンドで感動物語となるが――

実際、ドナーとなるほうはかなりの葛藤があるのではないか。
もちろん、移植される側(レシピエント)も、家族の健康体を傷つけてまで、ということで悩むだろう。ドナーは絶対安全とも限らない。リスクはあるのだ。

腎臓は片方だけになると非常に疲れやすくなり、若い女性は出産も難しくなるので、まず若い女性がドナーになることはないと聞く。

それを踏まえて『私の中のあなた』を見ていこう。
この作品は話題となり映画化もされている。

舞台はアメリカ。
あらすじは以下の通り。

病気(白血病)の姉のドナーとして、遺伝子操作されて生まれてきた妹。
最初は両親の言うがままに、骨髄を姉へ提供する。

が、そのうち姉は腎臓も悪くなり、移植が必要となった。
でも完治の可能性は低く、腎臓移植しても延命にしかならないという。

それなのに、妹は両親から「腎臓を姉に提供するよう」に仕向けられ――
それに対して提供拒否をすることにした妹は、親を告訴するというところから始まる。

妹の年齢は14歳という設定。

アメリカの法律がどうなっているのか知らないが、日本では未成年が生体移植のドナーになることは禁じられているようだ。

まず、医者が反対する。
とくに女子の場合、腎臓を提供するとその後、妊娠出産のときにかなりのリスクを背負うことになる。
将来、子供を産みたい女性が腎臓を提供する、というのはものすごい覚悟がいる。妊娠出産はあきらめなければならなくなるかもしれない。
なので仮に「ドナーになりたい」と言っても、医者や親は止めるだろうし、未成年であればそもそもドナーにはなれない。

アメリカは違うのか?

まあ、とにかくこの物語にかなり違和感を持った。
しかし、テーマは『家族愛』なのだ。で、感動を売りにしている。

親の長女(姉)への愛は分かるが、次女(妹)に対し姉へ腎臓を提供するように仕向ける行為は愛ではないだろう。

家族愛を描いたと言われても、かなり『?』だ。

そして、結末は――
「ちょっとそれはないんじゃないか」と思った。

以下、完全なネタバレ。見たくない人は見ちゃいかんぞ。

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エグすぎる『私の中のあなた』の結末

妹は「腎臓を提供したくない」と、親を告訴したが――
本当はそんな理由で両親に訴訟を起こしたのではなかった。

実は「もう治療はやめてほしい」という姉からの強い希望があったからなのだ。

姉は妹にだけ「治療をやめたい」と自分の正直な気持ちを打ち明けていた。治療を続けてほしいと願う親には本当の気持ちを言えなかった。

つまり、妹は「姉に腎臓を提供したくない」というわけではなかったのだ。 「治療をやめたい」という姉の希望のために「腎臓を提供したくない」と親を訴えたのだ。

そういったことが明らかにされていくのだが、その後――
なんと、妹は交通事故で脳死状態となってしまい、姉に妹の腎臓が移植されることになるのだ。

で、妹は死に、姉は生き残ることとなった。
しかも奇跡的に姉は病気が治り、元気になる。

うーん、なんだか妹があまりに不憫というか……最後は脳死になり、結局、ドナーになるのだ。

この14歳の妹――「もう苦しい治療は受けたくない」という姉のために、「ドナーになりたくない」と抵抗したが、本当は姉に提供したかったという。

いやあ、あまりに善人過ぎる。そもそも生まれた時から親からドナー扱いされ、よくぞひねくれずに育ったものだ。リアリティが感じられない。

ほんとうは提供したくない、リスクもあるし、怖い――これが普通の人間だろう。しかも女性の場合、妊娠出産をあきらめることになる。腎臓がひとつになると疲労しやすくなり、生活に支障が出る場合もある。

なので、妹が姉のドナーになることを拒否した理由が、「本当は治療をやめたい姉の願いだった」というのではなく、あくまでも妹は「自分の体がドナーとして傷つけられるのが嫌だった」「怖い」というほうが共感できたのに、と思う。

いや、実際、生体移植でドナーとなり、その後、完全な健康状態に戻れなかった人もけっこういたりするらしいから、やはりドナーになるのは躊躇する。
それに絶対安全ではなく、万が一の事故もありうる。

しかも将来出産を希望する女子が腎臓移植のドナーになるのは、大変なリスクを背負うことになるのだ。出産をあきらめなくてはいけないかもしれない。

そういったリスクを分かった上で、ドナーになりたいのか、である。
かなりの葛藤があって当然だと思う。

こういった物語では、臓器をもらう側の葛藤は描かれるが、提供する側の葛藤は、あんまり描かれない。
でも、そういったことも、ちゃんと描いてほしいと思った。

というわけで――
この『私の中のあなた』のドナーやその周囲の描き方に違和感ありまくり。
ドナーになることについてのリスクを考えなさすぎ。
ドナーになることの葛藤が描かれなさすぎ。

描かれているのは、結局きれいごと。
そして、こういった作品が親族間で「ドナーにならなくてはいけない」という見えない圧力を生み出しているのではないだろうか。

とにかく、感動するどころか、気持ち悪い物語だった。

そもそも、親が14歳の娘へ「姉のために腎臓を提供しろ」と迫るのからして、かなりエグイ。
いや、その前にこの親は、姉(長女)を救うために『きょうだい』を作ることにし、ドナーとしてふさわしい体となるよう遺伝子操作し、姉のドナーにさせる目的で産んだというのからして、妹(次女)に対する愛など感じることはできない。

というわけで、この『私の中のあなた』はどう見ても家族愛がテーマとは思えない。かなり歪んでいる。

だって家族愛という名の下に、母親が妹(次女)に「姉を救うためにドナーになってほしい」と強要するのだから。
『親のエゴ』『毒親』がテーマだというなら納得であるが。

もし仮に、あくまでも自分の体が傷つけられるのを恐れてドナーになることを拒否したとして――
拒否した妹は、一生、母親から「冷たい娘」と責められるのだろうか? おぞましい。

でも妹は交通事故で脳死となり、姉に腎臓を提供。移植は成功し、おまけに奇跡的に完治し生き延び、めでたし、めでたしとなる。
長女(姉)の死を非常に恐れていた母親は、次女(妹)の死については、あっさりと乗り越えたようである。さすが毒親

長女(姉)の死と次女(妹)の命の重さは、この母親にとって違ったのだろうか……ある意味とてもえげつない物語だった。感動系? 冗談でしょ。

娘にドナーになれと強要する毒親虐待物語。

友情?『 Friendship フレンドシップ』

同調圧力・女子生徒も丸坊主

上で話題にした『私の中のあなた』。劇中、姉は抗がん剤治療のため、髪が抜け、坊主状態になってしまうが、そんな姉を励ますために、母親は自分も坊主になり、妹の頭も坊主にしてしまう。そんなシーンがある。

まあ、この場合、次女は坊主になることを嫌がりはせず、むしろ喜んでいたのだけど。

この手の話はよく聞く。アメリカのスクールであった実話を元にしたという三船美佳主演の邦画『友情・フレンドシップ』もそうだった。

だいぶ昔の映画だけど――14歳の三船美佳扮する主人公が抗がん剤の治療のため、髪が抜け、坊主になってしまうのだが、そんな主人公を応援するために、女子を含めたクラスメート全員が坊主頭になるのだ。

しかも、青々とさせた半端ではない坊主頭、つまりスキンヘッドだ。

美談にされているが、ふと思う。
中には、坊主になることが嫌だった子もいるのではないか、と。
(いや、フィクションではなく実話がもとになった話だというから)

とくに女の子はそうだろう。でも、クラス全員で「坊主になろう」と言われれば、嫌とは言えない。
断れば「冷たい人」の烙印を押され、ずっと白い目で見られ、村八分状態になるだろう。

それでも学校のクラスの中では、皆が坊主だからまだいい。
けど、学校以外のところでは、青々とさせた坊主の女の子はかなり目立つだろうし、ヘンな目で見られるかもしれない。

これは実話なのだ。
その中には、悲しくて落ち込んだ女子もいたかもしれない。おしゃれをしたい年頃なのだから。

もちろん「病気の主人公と親友だ」というクラスメートは坊主になることに積極的に同意しただろう。
でも、親友というほどではなく、つきあいが薄かった挨拶を交わす程度のクラスメートもいたはずである。

けど「病気の友達のタメに」という旗のもとで、坊主=スキンヘッドになるのは嫌だ、とは言えないだろう。そういった同調圧力があったはずだ。

スキンヘッドになることを、クラス全員が心の底から快く同意したとは思えない。
少なくとも、私はスキンヘッドになるのは嫌である。14歳ならば、なおさらだ。
生活場所は、学校だけではないのだ。

アメリカの実話のほうでは高校生だったと聞いたが、どっちにしろ多感な時期、おしゃれに気遣う年頃じゃ)

一見美談であるが、これは『愛・友情を装った強制』である。断れない雰囲気を作って『皆同じ』にしてしまうのって、本当に美しいことなのか?
嫌々ながらも従った犠牲者がいるかもしれないのに。これが友情?

そもそもなぜ皆、同じ姿にする必要がある?
皆それぞれ違うのが当たり前だ。髪が抜けて坊主になった病気の主人公をいつもと変わりなく迎えてあげるほうがいいんじゃないだろうか。

全員同じ姿にするというのは、かえって不健全のような気がする。

『愛を装った強制』ということで、『私の中のあなた』と『友情・フレンドシップ』に同じ臭いを感じた。

この友情という名の下で女子も含めて全員スキンヘッドにする『フレンドシップ』も、姉のために犠牲になることをいとわない妹の話『私の中のあなた』も相当に気持ち悪い作品だった。

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